「慶陽。電子レンジ空いてるか?」 ある休日の夜、とうに夕食も終わった時間帯。 慶陽は深紅に声を掛けられ、洗い終わった食器類を片付ける手を止めて肩越しに振り返った。 「ん?ああ、空いて・・・・・・る・・・・・・・・・・・・・・」 途端、視界に入った不自然極まりない姿の深紅に、慶陽の台詞は不自然に途切れた。 居間で書類を片付けていたはずの深紅は、寝間着代わりの着古したシャツにスウェットのズボンを着て、手にはよく絞られた濡れタオル。 ここまでは良いのだが、頭部のほうに問題がある。 彼は凶悪犯のようにバンダナで口元を覆い、サングラスをかけていた。 「・・・・・・何だその格好?」 「チビどもにやられたんだよ・・・・・・」 「いたずらか?」 「居眠りしてる間にな」 手際よくタオルを電子レンジに放り込み、深紅は壁に寄りかかった。かけていたサングラスを外し、慶陽に突きつける。 「ほれ、見てみろよこれ」 「ぶっ」 思わず慶陽は噴き出した。深紅がかけていたのはサングラスではなく、クレヨンで黒く塗りつぶされた眼鏡だったのである。 「何だこれ。眼鏡の意味ねぇじゃん」 「かければうっすら見えないこともない」 「どっちだよ」 くっくっと笑いながら、慶陽は最後の皿を食器棚に戻した。流し台の周辺を綺麗に拭き、台ふきんを洗う。 「眼鏡ねーとうかつに歩けねぇんだよ・・・・・・」 溜息混じりに深紅は呟き、終了を告げる電子音が鳴った電子レンジから蒸しタオルを取り出す。 そして、口元を覆い隠していたバンダナを外した。 「くっ・・・・・・あっはっはっはっはっは!何だそれ!」 「うっせぇ、黙れ」 不機嫌そうに慶陽を睨みつける深紅の口元には、クレヨンで描かれたチョビヒゲとアゴヒゲ。これで笑わずにいられようか。 そういえばさっき、翡翠と晶が新品のクレヨンを持ってはしゃいでいた。恐らくあれが元凶なのだろう。 「っあー・・・・・・居眠りなんざするもんじゃねぇや」 「じゃあ、これを機会に身を正すんだな」 「それは余計なお世話ってもんだ」 食器棚のガラス戸を鏡代わりに、きちんと汚れが落ちたかどうか確かめつつ深紅はひらひらと手を振った。 視力が弱い者特有の目の細め方。それでもなおガラス戸に顔を近づけているところを見ると、汚れの有無も確認できていないのだろう。 深紅の口元には、まだチョビヒゲの跡が残っていた。 「見えねぇのか」 「んー・・・・・・微妙にしか見えねー」 「お前視力いくつだっけ」 「忘れた。でも、あれだ。視力検査で一番上のやつが見えねーな」 「げ。相当ひでぇんじゃねぇか」 「ひでぇよ、そりゃ。だから眼鏡に悪戯されて困ってんの」 「あー」 なるほど、と頷き、慶陽は深紅の手から蒸しタオルを奪った。「こっち向けよ」と促し、残った痕跡を落としてやる。 意外なほど深紅はおとなしくしていた。 「落ちたぞ」 「ん。サンキュ」 「眼鏡はどうすんだ?」 「ふつーに拭いたんじゃ無理っぽいしな、美月にでも頼もうかと思ってる」 「・・・・・・頑張れよ」 「おう」 色々な意味を込めての励ましを深紅は普通に受け流し、眼鏡を上げる仕草をしようとして苦笑した。 「駄目だな、こりゃあ」 「コンタクトにすりゃいいじゃん」 「やなこった。目ん中にガラス突っ込むなんざごめんだね」 「ああそうかい」 呆れたように肩を竦め、ふと思いついて慶陽は居間を指した。 「ところで、書類のほうは無事なのか?」 「・・・・・・もう手遅れだよ。表は平気だったけどな、裏面には落書きバリバリ」 「やられたな」 「ああ。ったく、あれじゃ法廷まで持ってけねーっての」 「徹夜で直すこったな」 「じゃあ眼鏡持ってきてくれ。スペアのやつ」 「ああ?何で」 「眼鏡なしで歩いてトラップ発動させちまったらどうすんだよ」 「・・・・・・わーったよ」 しぶしぶ頷き、慶陽はキッチンを出て二階へと向かった。 その途中でクレヨンの匂いをかいだような気がして振り返る。 「・・・・・・――――――っ!!!」 腹の底から湧き上がってきた笑いを必死に抑え、慶陽は階段を駆け上がった。深紅の部屋に急いで駆け込み、しっかりドアを閉めてから 笑い出す。 階段を登る途中、キッチンに見えた深紅の背中。 赤いクレヨンを使ったのは深紅の名に絡めてだろうか、シャツの背には大きく「女の敵」と描かれていた。 しかもあれは、美月の字だった。間違いなく。 「敵は一枚上手だったな、深紅」 未だ収まらぬ笑いをそのままに、慶陽はスペアの眼鏡が入った革のケースを手に取った。 幼少組の悪戯に美月が加担しているとなれば、話は一筋縄ではすまなくなるだろう。 (眼鏡のクリーニングと引き換えに、ぜってぇ何か要求される) しかもそれは、美月の思う壺なのだ。深紅が悔しがる様子が目に浮かぶ。 それは非常に面白そうなので、背中の文字については何も言わずにおくことに決めた。 傍から見ている分には、美月がすることは愉快極まりないのだ。 ひょっとすると、あのクレヨンも美月が贈ったものなのかもしれない。――つくづく、敵に回したくない奴だ。 この頭脳戦、勝つのは一体どっちだろう? (明日の朝が楽しみだ) 人の悪い笑みを浮かべて、慶陽は深紅の部屋を出た。 END. up date/05.02.23 |
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