鼻先を掠めた香りに、恋をした。 038:地下鉄 その日、俺は先輩にひたすら酒を飲まされ、べろべろに酔っていた。 もともと酒には強くもないのに、つい断れずに杯を重ねてしまったのだった。 引き止める先輩をどうにか宥め(こちらも相当酔っていたのだ)、俺は酔った体を引きずるようにして地下鉄へ向かった。 終電も近いその時刻、駅にはほとんど人気がなかった。毎朝ラッシュアワーの人波に揉まれ続けている身として、それはなかなか違和感 のある光景に映った。 懐から定期を出すのもおぼつかないほど酔っていたくせして、そんな感覚だけは冴えていた。 俺は酔いを醒まそうと、あえて構内を抜ける冷たい風に身をさらした。プラスティックの小汚い椅子に腰掛けて、言う事を聞かない四肢をだらりと伸ばして。 やがて、電車が到着した。空気が抜けるような電車特有の音とともにドアが開く。 俺は身を起こし、電車に乗ろうと立ち上がった。 やはり体を引きずるようにして電車に乗ろうとした瞬間、甘い香りが横切った。 一気に酔いが醒め、勢いよく振り返る。 しかし、そこには誰もいなかった。 「乗るんですか、乗らないんですか」と車掌に呼びかけられ、それでようやく我に返る。 急いで飛び乗った車内でも、さっきの香りのことが頭を離れなかった。 どうしてだろう。たったあれだけのことなのに、まるで一目惚れでもしてしまったかのようだ。 相手の姿を見たわけでもなく、声を聞いたわけでもないのに。 俺は馬鹿か。こんな――・・・・・・、こんな、恋をするなんて。 正確には恋とは呼べないかもしれない。 けれど、なぜか惹かれるのだ。この、香りという名の残像に。 それは成就する望みのない恋だ。 相手について何一つ知らない恋。こんなことがあっていいのか? 全く、愚かだとしか言いようがない。 つくづく馬鹿な男だよ、俺は。 それからというもの、俺は先輩曰く「恋をする男の顔」になったらしい。 世界の全ては何でもないものに成り下がって、代わりに意中の相手だけが世界の全てになるんだそうだ。ああ、当たってる。 でも、さすがの先輩でも、俺がどんな恋をしているのか知ったら、俺の正気を疑うだろう。 相手の顔も名前も声も、俺は全く知らないのだ。一般的な人からすれば、そこには恋愛の要素なんて見いだせない。 なのに、このざまだ。 毎日のように、あの香りの主の夢を見る。ハイヒールで駅の構内を颯爽と歩く、ショートカットの似合う女性。 「似合う」と言っても、顔は見たことがない。俺が声を掛けて、彼女が振り向く。いつもその直前で目が覚めてしまう。 夢の中の出来事なのに、そういう女性の姿を駅の人波に探してしまう俺も相当キている。 毎日毎日、時間さえあれば地下鉄の構内へと赴いて。 ケツの青い思春期の小僧じゃあるまいし。何だってこんな馬鹿なことをしてるんだ。 ――それでも。 それでも、時たま駅の構内や地下鉄の車内で、あの香りを嗅ぐことがある。そうすると諦められなくなってしまうのだ。 たった一度だけのことなら、諦めをつけるのも早かっただろうに。 諦めようかどうか迷っている時に限って、あの懐かしい香りが鼻先を掠める。 そうしてまた、希望を持ってしまうのだ。どこかに彼女の姿はないかと、香りの主に会えはしないかと。 いっそ諦めてしまった方が楽だと、知っているにもかかわらず。 どうして。 人並みの恋をしたこともあれば、恋人と付き合ったこともある。なのにどうして、こんな恋をしてしまうんだ。 ・・・・・・馬鹿だよ、俺は。 恋に幕を引いた場所は、やはり地下鉄の構内だった。 俺はあの時と同じように泥酔していて、あの時と同じように四肢を投げ出して小汚い椅子に座っていた。 違ったのは、俺が自分の意思で酒を飲んだということくらいだ。 今度先輩が結婚するという話を聞いて、つい自棄酒を煽ってしまったのだった。 先輩は真っ当な恋をして真っ当に付き合って、真っ当にゴールインした。 なのに、俺は? 香りに惑わされて、馬鹿みたいにそれを追って、夢と幻想とに溺れて。 何をやっているんだか。 あの時と同じように電車がやって来た。ゆっくり速度を落として止まり、空気の抜けるような音とともにドアが開く。 俺は黙ってその様子を見ていた。 これで、香りの主が電車から降りてきたら・・・・・・なんて淡い幻想を抱いていたのも事実だ。実際、そんなことはなかったのだけれども。 「乗るんですか、乗らないんですか」という車掌の声すら、あの時と同じだった。 「乗らない」と答えるのも面倒臭く、俺は黙って手を横に振る。 電車のドアは閉まり、結局誰もそこから降りてくることはなかった。 地下鉄の構内は、地上の構内よりもずっと静かであるらしい。終電が通り過ぎて行った今、そこは深海のような静けさが満ちていた。 眠りに落ちてしまいそうだ。 いや、実際に俺はうとうとしていたのだろう。かつ、と誰かの足音が聞こえたので目が覚めた。 「私を見てはいけません」 目を開けようとした途端、柔らかな手に視界を塞がれた。誰かが背後に立って、自分に目隠しをしているらしい。 その手から、これまで欲してやまなかったあの残像が香った。 「これ以上、異界に近づいてはいけません」 言葉を失った俺の耳に、静かに静かに声が降る。 やや低めの、凛とした声。酔った耳に心地良い。 「あなたはこちらに近づきすぎた。境を越えてしまう前に目覚めなさい」 ああ、やはりこれは夢なのだ。自分が創りだした幻想なのだ。 そうでなければ、目覚めることなどできはしない。 「時たま、あなたのように、異界の端を察知して恋焦がれる者がいるのです。けれど、普通の人間にとって異界は毒でしかない」 快い声が鼓膜を震わす。俺はそれに酔いしれた。 「私のことは忘れなさい。異界の香りは、あなたにとって有毒です。これ以上追ってはいけません」 「・・・・・・ああ」 夢うつつに俺は頷いた。そう、これは夢なのだ。 夢の内容は、目覚めたら忘れるものだ――・・・・・・ いつしか俺は、深い眠りに落ちていた。 「お。髪、ずいぶんバッサリいったな。失恋か?」 「からかわないでくださいよ。図星は何より痛いんですから」 「図星?本当か。お前、結構長く片思いしてたじゃないか」 「そうですね、半年近くになりますか」 「半年ぃ!?よくそんなにもったな!」 自分でもそう思う。香りなんてもの一つで、半年も恋し続けていただなんて。 何故失恋したと思うのか、理由は自分でも分からない。 ただ一つ確かなのは、あの香りを嗅ぐことはもう二度とないということで。 そう確信する理由も特にないのだが、何故かそうなのだという思いだけがあった。 髪を切ったのもそのせいだ。長くも短くもなかった髪を、スポーツ刈りほどにしてしまった。 今時失恋して散髪もないとは思ったのだが、まあ、後悔はしていない。心身ともにさっぱりしたから、これで良かったのだろう。 そしてついでに、俺は車を買った。 とは言うものの、中古車だ。走行量は3万kmをオーバーしているが、大きな傷も故障もない。掘り出し物だったと思っている。 免許証はすでに持っていたから、買った翌日からそれを通勤に使うことができた。 地下鉄には、もう乗っていない。これからも、よほどのことがない限り乗らないだろう。 彼女が何者だったのか、名はなんと言うのか、俺はまだ知らないままだ。 そこであの香りを再び見いだしてしまったら・・・・・・今度こそ、歯止めが利かなくなってしまうような気がした。 全てを投げ出してでも、香りの主を追いかけたくなってしまうような気がしたのだ。 だから、きっと。 これで良かったのだ。 END |
up date/05.03.07
image song:富田ラボ「香りと影」
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