誰もいない薄暗い路地を、夜は一人歩いていた。
シャーロック・ホームズのような服に、色素の薄い髪と肌。首の後ろで括られた髪が馬の尾のように揺れている。
ジャンクフードの容器や紙くずが散らばる路地の中、夜だけが不釣合いに浮世離れしていた。
ひゅう、と風が吹き抜ける。それが合図であったかのように夜は振り向く。
風の中に馴染みの匂いを嗅ぎ取って、ふと夜は微笑んだ。


さァ、御立会い。マジック・ショウを御見せしましょう。


数拍置いて、空気が止まる。3、2、1。
轟、と強烈な風が抜けていく。どこか生臭い湿った風。
墓場の風だ、と夜は思った。
轟々と吹き荒れる風が収まったのを見計らって、夜は肩越しに声を投げた。
「いつまでそうしているつもりだい?紀一郎」
「・・・・・・行きましたか。彼らも随分しつこくなった」
心底疲れきったような声がして、外套を掴まれていた感触が消える。背後で彼がふう、と息をつくのが聞こえた。
「いい加減、人を盾にするのはよしてくれないか。こういう体質だと解っていても良い気はしない」
「すいません。ただ、どうも嘉月さんを見ると飛びつく癖が付いてしまっているようで」
はは、と彼は能天気そうに笑ってみせた。その実、この男は結構な策略家でもあることを夜は知っている。
重々しい溜息をついた夜の顔を、彼が下から覗き込む。彼の方が頭一つ分小さいのだ。
「どうなさいました、嘉月さん。溜息なんてついて」
「・・・・・・お前と会うたびに、私は寿命をすり減らしているような気がするよ」
「何を仰います。僕らにとっての寿命なんて、在るような無いような、そんなものでしかないじゃあないですか」
「だが有限だ」
言い放って夜は歩き出した。紀一郎が後を追う。
そう、この生命は有限なのだ。夜にとっても紀一郎にとっても、それは同じこと。
紀一郎は精霊だ。どこか――確か今はヘビミヤとか言う男が神主を務めている神社の、御神木の精霊。
そして夜は異端の者。
妖怪たちを引き寄せては抹消する、誘蛾灯。
「嘉月さん、何処に向かっているのです?」
「お前に教える義理は無い。それに、その名を呼ぶんじゃないと何度も言っているだろう」
「嘉月さんは嘉月さんです」
「人だった頃はそれで良かった。だが、今は違う」
吐き捨てるように夜は言った。彼にその名を呼ばれるたびに、かつての記憶が蘇る。
人だった頃の、まだ両親も姉妹も生きていた頃の、懐かしい記憶。
今はもう、どんなに願っても取り戻せなくなってしまったもの。
いつからか自分は人でなくなっていた。
「私はもう、人の名前を負っていていいモノじゃあない」
乱暴に廃ビルの裏口を開け、かつかつと足音を響かせて階段を登っていく。
人の寿命を遥かに越える年月が過ぎ、家族は死に絶え、自分だけがこうして生きている。
もう、知り合いと呼べる知り合いはこの男ともう一人くらいしかいない。
下らぬ感傷だ、と夜は自嘲した。
「私は夜だ。この世ならぬモノを闇に還すモノ」
紀一郎は答えない。
かつ、とひときわ高く足音がこだました。
階段は途切れ、錆びたドアが目前に立ちはだかった。何のためらいもなくドアノブに手を掛ける。
ひどく嫌な音がして、軋みながらもドアは開いた。
「それでもあなたは嘉月さんです。人ではなくなった今でも、それは変わりはしないのです」
屋上に出たところで、まだドアの向こうに留まっている紀一郎がそう言った。どこか悲痛な響きのある声。
夜は振り向いたが、彼の顔は薄暗がりに隠れて見えない。
「あなたはご自分のことを誘蛾灯と言う。けれど」
ぽす、と軽い衝撃があった。驚きに身動きできない夜の背に、紀一郎の腕が回される。
「こうして、あなたに触れても消えない者はおります」
「・・・・・・お前、梅さんはどうした。妻帯者が取る行動ではないぞ、これは」
ようやくそれだけの台詞を搾り出すと、胸の辺りで彼が笑う気配がした。
「あれは心の広い女です。このくらいなら許してくれます」
そうかもしれない、と夜は思った。彼女の柔らかな微笑みが今は懐かしい。
彼女もまた、自分たちを残して逝ってしまった一人だ。
考えていると、紀一郎の腕に力がこもった。
「紀一郎」
「駄目ですよ」
夜が何か言うより早く、紀一郎が台詞を被せた。また、腕に力が込められる。
「あなたも彼岸に行こうだなんて考えないでください。あなたは此岸の者です。あちらに行ってはいけません」
「紀一郎」
「あなたまでいなくなったら、僕は記憶に押しつぶされてしまう」
そこまで言われて初めて、夜は彼の孤独に気付いた。
彼はあやかしの掟を破り、人間の妻を娶った。それゆえ追われ続けている。
追っ手を振り払うことはできない。夜が、この力でもって祓わない限りは。
夜が傍らにいる間だけ、紀一郎は休息をとることができるのだ。
気付かなかった。いつもいつも、当然のように笑っているから。
「紀一郎。私は彼岸へは行かない。まだ、私を望む者がいるから」
そう彼の頭を撫ぜれば、おずおずと黒い瞳が見上げてくる。夜はそっと笑いかけた。
「大丈夫、行かない」
「・・・・・・本当ですね?」
「ああ。――だから、そろそろ離してはくれないか?」
冗談めかして彼の腕を指差す。しぶしぶ、といった様子で紀一郎は夜から離れた。
「嘉月さんの身体、柔らかくて気持ち良かったんですけどねえ」
「妻帯者でなくてもそれは言うな。この変態が」
「変態じゃありませんよ、男として当然の感覚です。嘉月さんも、もっと女性らしい格好をなさったらどうです」
「断る。あんな格好をしていたら動き難くてしょうがない」
「ということは、着たことがあるのですね?見たかったなあ、嘉月さんのすかあと姿」
「紀一郎?」
怒りを含んだ視線を送れば、彼は慌てて目を逸らした。「ああ、あちらに登ってみませんか?」などと言って給水タンクの上へと身軽に よじ登っていってしまう。
見上げれば、空は晴天。紀一郎の案に乗るのもいいかもしれない。
とん、と彼より遥かに軽々と給水タンクの上へ登る。彼は少々むっとしたようだったが、それもすぐに解消された。
「あ、見てくださいよ嘉月さん!あれは僕の曾孫です!」
「曾孫?」
その嬉しそうな声に興味がそそられて、夜は彼が示す先を見た。通りの向こうに、学生服姿の少年がいる。
白い袋を持っているところを見ると、たった今買い物を終えたところなのだろう。こちらに気付いた様子はない。
少年は店先に設置されている、付けっぱなしの誘蛾灯に見入っていた。何が楽しいのかしばしそうして眺めていて、 やがて思い出したように歩き出す。
「彼もだいぶ変り種のようだな。あんなもののどこが楽しいんだか」
半ば呆れたように夜が呟くと、「違いますよ」と返された。なぜか紀一郎はひどく楽しげに笑んでいる。
「綺麗だから見ていたのでしょう。僕もあれ、好きですよ。普段はなかなか見ていられませんが」
へえ、とその気なさげに夜は相槌を打った。誘蛾灯は綺麗か。好きなのか。
自分も、誘蛾灯だ。
はたと気付いて動きを止めた。さっきの台詞に他意があったのかどうか、その横顔からは窺えない。
「嘉月さんも綺麗ですよ?」
――不意打ちだった。
紀一郎の視線は目前の風景から逸らされることなく、ともすればそれは空耳だったのかと思いたくなる。
けれど、湧き上がる感情がそう思うことを許さない。
誤魔化すように夜は立ち上がり、紀一郎が見ている風景の一角を指差した。
「私は最近、あの辺りに店を開いた」
「お店ですか」
「ああ。妖怪祓いの店だ。お前も来るといい」
「伺いましょう。店の名は何と言うのです?」
「・・・・・・『誘蛾灯』だ」
しまった、と思いながらも夜は答えた。また、先程の話題に戻ってしまう。
案の定、紀一郎は策士の笑みを浮かべて応じる。
「僕は常連になりそうですね、嘉月」
「――勝手にしろ!」
ふん、と照れ隠しに夜はそっぽを向いた。一呼吸置いて、紀一郎が自分の名を呼び捨てにしたことに気付く。
頬が上気する。
だから、この男は苦手なのだ。





誘蛾灯は蛾に恋をした。



up date/05.03.27



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