俺に最も近い奴にさえ、言っていないことがある。 恐らくこの先もずっと言うことはないだろう。 周囲の奴らは俺のことを好色と言う。だが、それは大きな間違いだ。 女が好きだから手を出すのではなく、むしろその逆だから女と添う。 どうすれば人の心を動かせるのか。 どうすれば人は相手を好くのか。 それを知るために俺は女と添う。相手はどう思っているか知らないが、俺にとってはいつだって、両者の関係は実験者と被験者でしかなかった。 たった一人を除いては。 冴木真奈子という、そのたった一人だけが、俺にとっての「女性」だった。 単なる生物学上の記号や社会的な役割としての「女」ではなく、俺が確かな存在として認めた――唯一の。 彼女と出会ってから俺は、実験的な行為の一切をやめた。 相変わらず女と一緒にいることは多いけれど、そこに実験者の無機質ぶりを持ち込むことはない。 ましてや心を捧げるなどは。 そんなことを誰かに教えてやるつもりはない。誰にも。 絶対に。 「あんた、他人を突き放した目をしてる」 「それがどうした」 「寂しいねえ。一生独りでいるつもり?」 「人間誰でも、生まれてから死ぬまでずっと独りだ。誰といたって独りと独りの並列でしかねえだろ」 「まあね」 「俺も独りでお前も独り。それ以外に何がある?」 「何も。――でもね」 「でも?」 「あんたが言ってるのは理屈の上でのことだろう。一緒にいて楽しいなら、それでいいじゃないか」 「感情論だな」 「感情論さ。でも、独りじゃ楽しくはなれないだろ。違う?」 「・・・・・・いいや」 「あたしは独りであんたも独り。そりゃ結構。でもあたしは、あんたと一緒にいると楽しい。幸せって言えるくらいにね」 俺の中に何かがあふれた。 ひかりに似た感情が、静かに俺の内側に満ちた。衝動のままに彼女を抱きしめると、そのひかりは熱を帯びてますます明るく輝いた。 泣きたいくらい幸せだった。 どうしてだろう、何度他の女に言われたか知れない台詞が、なぜか俺の身に沁みた。 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかった。 普通に暮らしていても、何人の女を籠絡してみても、満たされなかった部分。それが今、ひかりと熱に満ちている。 ひかりがまぶしい。――いとしい。 この上なく。 「結婚しよう」 そろそろ成人するかどうかという歳の俺が言った言葉を、彼女はどう受け止めたのだろう。 ただ微笑んで首を横に振った彼女の真意を、俺は未だに知らない。 たちの悪い冗談だと思ったかもしれない。ガキのたわごとだと思ったかもしれない。 けれど何と思われようとも、俺は言わずにはいられなかった。心の底から望んでいた。彼女と離れるなんて考えられないくらいに。 「あたしは誰とも一緒にはいられないよ」 彼女は何を思ってそう答えたのだろう。 どうして、と聞かずに引き下がってしまったことが悔やまれる。――今でも。 繰り返し痛む火傷のように、その思いは俺の中にくすぶっている。 聞けばよかった。 そして、彼女がしてくれたように、俺も彼女の支えになってあげられたなら。 (そうすれば何かが変わったとでも?) 悔恨とともに、ちいさな呟きもまたこびりついて離れない。 あまりに虚ろだった彼女の目―― 【小学校に放火 児童113人が死傷】 9日午後1時ごろ、東京都××区の××小学校が放火され全焼した。警視庁は同校への放火容疑で、同区の飲食店員、冴木真奈子容疑者(25)を現行犯逮捕した。同容疑者は、容疑を全面的に認めているという。動機については「やりたかったから」と語っており、詳細は黙秘している。... 世界が真っ白になったような気がした。 いくつもの「どうして」で頭がいっぱいになった。泣いたり喚いたりする余裕さえないほど混乱した。 新聞の容疑者名と罪状、死傷者数を何度も何度も見直して、それらすべてが正しいなら、彼女はかなり重い実刑判決を食らってしまうことになる。覚悟を決めるような気分で俺はそう考えた。 実際、俺は頭のどこかで覚悟していた。その時俺はすでに検察バッヂをもらっていて、そろそろ大きな事件も扱ってみるか、と上司に言われたばかりだったから。そして同じ検察署にいるメンバーたちの忙しさから考えて、この事件を扱える余裕があるのは自分くらいだったから。 案の定、その事件は俺が裁くことになった。 兄に彼女の弁護を頼んだのは、あいつとなら法廷で向き合っても落ち着いていられると思ったからだ。下手に知らない奴とやりあうよりは自制がきくような気がした。少なくとも、頭に血が上ってまともな弁論ができなくなるような醜態を晒さずにはすむだろう、と。 同時に、あいつになら論じ負けても悔いはないと思ったから。 弁護士の力不足のせいで、俺が彼女を死に追いやるようなことにはなるまいと思ったから。 真奈子。 面と向かってそう呼ぶことはなかったし、これからも恐らくないだろうけれど。 真奈子、お前は誰より俺に近い女性だと思っている。 お前がたどった道は多分、俺がたどったかもしれない道だ。俺の中にも何をしでかすか分からないどす黒い衝動は確かにあって、いつだってその発露を恐れているのだから。 でもお前がそれを教えてくれたから、俺はお前と同じ道はたどらない。 俺は俺の衝動にではなく、法のもとにひざまずく。 俺は独りだからきっと、情に左右されない公平な判断が下せると思う。 もちろん法廷に余計な感情を持ち込まないことは、法を執行する者としては当然のことだけれど。 お前を護るのもそういう奴だから、お前の罪は重くも軽くもならないだろう。――決して。 それでも。 いっしょにいて幸せだと言ってくれたなら、真奈子。どこまでも俺は、お前とともに。 「ここのところ、やけに独りでいるのが多いな。操立てか?」 「誰にだよ。俺が特定の女に入れあげるとでも?」 「お前が俺に頭を下げたのは、あの時が最初で最後だったよ。プライドの高いお前がな」 「・・・・・・」 「明日で判決から3年だな。――特別な、相手だったんじゃないのか」 「・・・・・・さあね」 兄はそれ以上深く聞こうとしなかった。 馬鹿だな、兄貴。 そこで「じゃあどうして」と聞きさえすれば、俺は理由を語っただろうに。 そこで引き下がりさえしなければ。 馬鹿だな。 なんて複雑な、人の心。 相手が何を考えているかなんて、本人の口から語られたのだとしても真実とは限らない。 真奈子、あの時も今も、お前は自分のことを何も語ってはいないけれど、俺と一緒にいて幸せだと言ってくれた、その言葉は今も俺の中に小さなひかりを灯している。 嘘だとしても嬉しかった。 何を思ってそう言ったのかは知らない。お前も多分、教えてはくれないだろう。 真奈子。今でも俺は、お前のことをいとしく思っているよ。 だからこの先、俺が他の女と一緒になることはない。お前以外の誰とも。 お前が何をしたとしても、何を考えていたとしても。 お前だけが、俺の。 fin. finished date/06.11.15. |
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