天眼帰淵は世の果てだ。
照覧者の座する場所にして異界の終わり。昼もなく、夜もない。
『果ての海』の対として存在するここは、照覧者たる夢姫だけの世界だ。他には誰もいない。
そんな場所で訪問者があるとすれば、それはただ一人。
自他共に認める「どこにも属さぬ者」――異界放浪者、常磐。
どれだけの年月が経っても変わることのない容貌。シルクハットに燕尾服、白い手袋。珍しく相棒のウサギを連れていない。
「久しぶりね、常磐」
「ええ。お久しぶりです、夢姫嬢」
相変わらずの喰えない笑みを常磐は浮かべる。
「・・・・・・やっぱり私は『嬢』なのね」
夢姫は唇を尖らせた。彼がそう呼ぶのは夢姫を認めてくれていない証拠だ。常磐は認めている――気に入っている女性には「レディ」 の呼びかけを使う。
例えば、あの新たに加わった異界放浪者の少女のように。
「あなたは私をどう思っているの?」
これは幾度となく訊いたこと。返ってくる答えはいつも同じ。
「貴女は『天眼帰淵』の照覧者です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「私は、それ以上になりたいの」
夢姫はまっすぐに常磐を見た。しかし、彼の目はシルクハットの陰に隠れて見えない。
いつの間にか、口元に浮かんでいた笑みは消えていた。
無表情――
今の常磐に当てはまるのは、恐らくそれだ。
ふいに夢姫は恐ろしい思いに襲われた。このまま彼が永遠に姿を消してしまう気がしたのだ。
捕まえておかなければ。
彼が逃げてしまわないように、
消えてしまわないように、しっかりと。
気付けば夢姫は常磐の腰に抱きついていた。
「私の――」
なんだか泣きそうな声だった。
「――傍に、いて」
声に出してしまってから、答えを聞くのが怖くなった。怯えるように常磐の胸に顔をうずめる。
常磐は声を発することも、身じろぎすらもしない。
ああ、やはり、
――全ては失われてしまうのだ。
「夢姫」
ふ、と常磐の手が夢姫の後頭部に触れた。手袋に覆われた、大きな手。あたたかい。

「私は、ここに留まっている訳にはいかないのですよ」

知っていた。
それを承知の上で言ったのだ。答えなど、本当は訊く前から知れていた。
それでも、
――それでも、訊かずにいられなかったのだ。
夢姫は無言で目を閉じた。
常磐の手がゆっくりと上下して、夢姫の長い髪を撫でていく。一定のリズムで。
いつしかそのリズムに呼吸を任せ、夢姫は眠りに落ちていた。
長い照覧者としての生活の中で、初めて得た眠りだった。




「・・・・・・やれやれ」
夢姫が眠ったのを確認し、常磐は彼女をそっと横たえてやった。上に自分の燕尾服を脱いでかけてやる。
穏やかに眠り続ける夢姫の横に腰を下ろし、常磐は彼女の寝顔を見つめた。
自分の存在――記憶を抹消する手段として、常磐はよくこの術を使う。原理は知らない。気付いた時にはすでに、この力は常磐の中に 存在していた。
相手を眠らせ、夢と現実の境をぼかしてしまう力。やり方を変えれば、自分と会った記憶そのものを消し去ってしまえる。
照覧者の二人はともに同様の力を持っている。しかしそれが自分に効くことはない。
常磐は自分の掌に視線を落とした。

なのになぜ、自分の力は照覧者に効く?

厳密に言えば、常磐はもう一人の照覧者――鏡野にこの力を使ったことはないから、夢姫にしか効かないのかもしれない。それでも、 夢姫に効くことには変わりがないのだ。
彼女は知らないことだが、常磐はこれまでにも何度かこの力を使って、彼女の記憶を抹消してきた。
彼女が自分と会った記憶を――自分への願いを。
『私の傍にいて』
これで何度目になるだろう、彼女がそう言った記憶を消し去ったのは。
夢姫は数少ない同類だ。その願いを叶えてやりたいとは思うが、こればかりはどうにもならない。
かつて常磐がある世界に留まろうとした時、常磐という存在は消えかけた。
一定の時間が過ぎると身体が透け始め、意識すらも保てなくなっていくのだ。
そして常磐は己が存在していくための条件を知った。――放浪し続けなくてはならない。
彼が異界放浪者と呼ばれる理由もそこにある。彷徨う者。帰るべき地を持たぬ者。
――けれど。
「私だって、誰か傍にいて欲しいと願うことはある」
ぽつりと呟き、常磐は夢姫の頬にそっと触れた。やわらかなぬくもり。いつまでも守りたいと願う。
自分が傍にいてやることはできないのに。
「・・・・・・わがままですね、私は」
表情を隠すように、常磐はシルクハットの縁を引き下げた。そしてふと思いついたようにそれを脱ぐ。
静かに上下する夢姫の胸の上に置く。確かに自分がいたという証として。
「ん・・・・・・」
子供っぽい仕草で夢姫が寝返りを打った。シルクハットが転がり落ちる。常磐は苦笑した。
ずれてしまった燕尾服を丁寧に掛け直してやり、シルクハットは枕元に置き直す。
もう行かなければ。

「それでは、また会いましょう。――レディ・夢姫」

眠る彼女に別れを告げ、常磐は天眼帰淵を後にした。
この世界独特の青空がやけに広い。




何も考えずに放浪していたはずなのに、なぜか雪穂と鉢合わせした。
「――常磐、なの?何その格好」
雪穂はひどく驚いたようで、大きな目を真ん丸に見開いていた。
そういえば彼女には自分の瞳すらろくに見せていないのだった。それがシルクハットを被っていないせいで丸見えになっている。 その上燕尾服まで着ていないとなれば、彼女が驚くのも無理はない。
ある場所に置いてきたのだと説明すれば、雪穂はますます驚いたようだった。
「あの服、あんたの象徴みたいなもんだったじゃない。いいの?置いてきちゃったりなんかして」
「いいんですよ。どこかでまた手に入れます」
「どこかで、って・・・・・・どこで?」
「どこかで」
「・・・・・・答えになってないわ」
「では、訊かないでください」
「泥棒は駄目よ」
「誰も盗むとは言っていません。その世界の法律には従いますよ」
「だったらいいけど」
呆れたように肩をすくめた雪穂に、常磐は思わず口の端を吊り上げた。それを見た雪穂が動きを止める。
「どうしました?」
「・・・・・・私、初めてあんたが普通に見えたわ」
あまりにしみじみとした口調だったので普段はどう思っているのかと問い詰めたくなったが、そこはぐっとこらえておく。
今は口喧嘩などできる気分ではない。
「私だって貴女と同様、元は人間だったのですよ」
告げると、大げさなまでに雪穂は驚きの表情をあらわにした。どうやら彼女は常磐を妖怪の一種とでも思っていたらしい。
今となってはあながち外れとも言えないのだが。
「に・・・・・・人間?本当に?だってあんた、あんな」
「ああ、相棒が戻ってきましたね」
常磐は強引に話題を逸らし、駆け寄ってきた相棒のウサギを抱き上げた。
誰が妖怪だ。そんなことを思っている奴には、詳しいことなど教えてやらない。
今度はどこへ行っていたのか、相棒の毛皮には薄青い燐粉のようなものがついていた。
「それでは行きましょうか、相棒」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!詳しく教えなさい!」
「お断りです」
「待ってよ!気になるじゃない!」
「どこかでまた会いましょう、レディ・雪穂」
「あー!逃げんじゃないわよ、この誘拐犯ー・・・・・・!」
遠くで雪穂の悲鳴じみた叫びが聞こえる。それは僅かな反響を残し、やがて消えた。
――誰が誘拐犯ですか。
最後の一言を、常磐はしっかり聞いていた。そして詳しい事情は一切話すまいと誓う。
きっと、いつかは話してしまうだろうけれど。

貴女は私に最も近しいひと。

だからいつか。



私の傍にいてくださいと言ってみよう。







end.

up date/05.05.03.


後記。
夢姫は常磐に惚れてますが、常磐は無意識にそこから目を逸らしてます。
逆に常磐は雪穂に惚れているかと言うとそうではなく、同類として傍にいてくれって感じです。
夢姫の恋愛感情も恐らくは孤独から来るもので、本当の意味で惚れているわけではなく。
常磐は誰にも惚れないでしょうし雪穂もだんだんそうなっていくと思います。
いつかどこかで割り切ってしまうと思うのです。難しいなあ。


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