ふらりと帰ってきたカインは、キッチンから漂ってくる異臭に気付いた。 (・・・なんだ?この匂い) 基本的には食欲をそそるいい匂いだ。しかし、甘いような辛いような酸っぱいような、妙な匂いが混じってきている。 覗きたくないのはやまやまなのだが、キッチンの前を通らない事には、2階に通じる階段まで行けない。 カインの部屋は2階にあり、そしてキッチンにはドアが無い。 否、たとえドアがあったとしても、この悪臭では到底締め切ったままにはしておけないだろう。 (どうすっかな〜・・・) 選択肢は2つ。 何も見なかったことにして出直してくるか。それとも、勇気を出してここを通るか。 悩みに悩んだ挙句、そぅっとキッチンを覗いてみた。 途端、視界を占領したのは床一面にぶちまけられた、どす黒い液体。 想像した以上に強烈だった。 「・・・よぉ、カイン。いいところに帰ってきたな」 さっと背を向けて出て行こうとしたら、真っ青な顔をしたライに捕まった。 ライはエプロンと三角巾を着用し、ゴム手袋をはめ、雑巾が掛かったバケツを持っている。完璧なお掃除スタイルだ。 考えたくも無いが、どうやら「このどす黒い液体を処理するのを手伝え」と言いたいらしい。 カインとしては、こんな得体の知れない物体には関わりたくない。 「あー・・・これ、何なんだ?」 「製作者いわくシチューだとよ」 シチューとは白いものではなかったか。 「ビーフでなくて、普通のシチューか?」 「そうだ」 肯定されてしまった。 「片付けを、手伝え」 「い、嫌だと言ったら?」 「そのシチューを食べてもらいましょう」 ぽん、とカインの肩を叩きながら言ったのはフローラ。彼女もまた完璧なお掃除スタイルだ。 どう考えても彼女がシチュー製作者なのだから、責任を感じたのかもしれない。 「フローラ・・・」 「何です?ライ」 「いいか?よーく訊いとけ。シチューにはトマトもほうれん草も入れるもんじゃねぇ!あれは溶けるんだよ!それに、にんじんも じゃがいもも、刻みすぎれば同じように溶けるんだ」 「でも、野菜はたくさん入っていたほうが栄養バランスとしては・・・」 「だからってありったけの野菜をブチ込もうとするな!こんなどす黒い物体を食いたいと思えるのか!?」 「思えませんねぇ」 「そう思うならレシピ通りに作ってくれ。頼むから。あれには『わさびや砂糖や酢を入れろ』とは書いて なかったはずだ」 「『入れちゃいけない』とも書いてませんでしたよ?」 「レシピに書いてなかったら硫酸入れてもいいのか!?レシピの通りに作れば、よっぽど難しいのでない限り作れるんだよ!」 二人の会話を聞いて、カインは何故こんなどす黒いシチューができたのかを理解した。 恐らくはトマトの赤とほうれん草の緑が混じって黒くなり、溶けたじゃがいもによってドロドロ感が増し、わさび・砂糖・酢のせいで異臭 が発生しているのだろう。 (・・・食いたくねぇ・・・) しかも、ライのレシピを傍らに置いての作業だったらしい。見事なまでにレシピを無視した完成図である。 カインが思うに、フローラの料理下手の原因はここにある。レシピに載っていない事まで実行してしまうのだ。 それをやめない限り、フローラがまともな料理を作れるようになる日は遠いだろう。 (つーかこれ、まさか、俺の誕生日祝いのために作った、って訳じゃぁねーよな・・・?) もしそうだとしたら、食べるべきなのだろうか。コレを。 恐る恐るテーブルの上に目をやると、このシチューが入っていたと思われる鍋がドン☆と置いてある。 この家にある中で最大の、鍋だ。 あの鍋いっぱいにシチューを作ったのだとすれば、床にぶちまけられた分だけでは足りないだろう。 と、いうことは。 (間違いねぇ・・・鍋ン中、シチューがまだ残ってる!残ってる!) フローラの事だ、「もったいないですから」とか言って皿一杯に盛り付けて夕食の一品として出しそうだ。 こんな異常な色をしたシチューを食べて、無事でいられるのだろうか。いや、無事ではいられまい(反語) 今すぐにでも逃げ出したいのはやまやまだ。が。 カインの目の前にはライ。背後にはフローラ。 まさに前門の虎、後門の狼。どちらに進んでも大惨事は免れない。 鍋の中身を食べずに済ます方法は、ただ一つ。 (・・・掃除すると見せかけ、畑の肥やしとして埋める!) 土の方が耐え切れずに腐ってしまいそうだが、これしかない。 つまり。 「・・・・・・掃除、手伝う、ぜ・・・」 カインはガクリと膝をついた。 そうするしかなかったと諦めよう。 「おや。ようやく決心がついたのですね」 どこまでも爽やかな笑顔を向けるフローラ。 「初めっからそう言や良かったんだよ」 何が何でも掃除を手伝わせるつもりだったらしいライ。 勝てる勝負ではなかった。 (誕生日って・・・もう少し楽しいもんじゃなかったか・・・?) 確かに、カインは元々誕生日が嫌いだった。しかしこれでは、ますます好きになれないではないか。 11月10日はカインの誕生日、改めブラックシチューの日。 「お、終わった・・・」 「終わりましたねぇ」 「やっと終わったな」 数々の苦難を乗り越え、彼らは偉業を成し遂げた。そう、ブラックシチューを跡形も無く片付けるという偉業を。 「わー、綺麗になってるね」 本物の子供にひけをとらない、純粋な笑顔を浮かべてリュオンが帰ってきた。 (くっそ、今までどこに逃げてやがったコイツ!?) 「そういうことはもっと心の奥底で考えるんだね、カイン」 (読心術かよ!?) 「表情にありありと心情がでるんだよ、きみ」 そう言われても、相手がリュオンだと心を読まれている気がしてならない。 「何かおめぇら、やたらに疲れた顔してねぇ?」 リュオンの後ろからひょっこりと顔を出したのは、ギルバートだ。 彼の台詞と表情からして、先ほどまでキッチンの床を占領していた物体のことは何も知らないらしい。 「いや、ただシチューの後片付けをしていただけですよ。ほら」 フローラがギルバートの鼻先にどす黒い液体がこびりついた雑巾を突き出す。 それが視界に入った途端、ギルバートとリュオンは後ろに飛び退いた。 気持ちは分かるが、さっきまでの自分は(鍋の中のシチューをこっそり捨てるため)逃げる事もできなかったのだと思うと、カインは何 だかいじけたくなった。 「それ、シチューか?シチューなのか!?」 「シチューって白いものじゃないの?」 やはり最初に浮かぶ疑問はそこらしい。 「私が作るシチューは黒いようですよ」 「他人事みたいに言うなよ」 全くだ。 「黒いシチューが作れるなら、青いシチューとかも作れるかもな・・・」 「作って欲しいんですか?」 「やめろ」 そんなシチュー、何が入っているか分かったものではない。 いや、黒いシチューも、何が入っているか分からないという点では同じだろうが。 「ギルバート、その無駄にでかい体でキッチンの入り口塞ぐのやめてくれないかしら?」 いつの間にか、マイシェルがギルバートの背後に立っていた。 両手に買い物袋を抱えているところからして、どうやら買出しから戻ってきたところのようだ。 「!おうマイシェル、帰ってきたのか」 「帰ってきてなかったらここにいないわよ。・・・と、カイン、あんたもいたの」 「いちゃ悪ぃかよ」 「悪くはないわよ」 さっきから無意味な会話を繰り返しているような気がする。 「ちょうど、あんたに渡したいものがあったのよね。ほら、これ」 ごそごそと買い物袋の中からマイシェルが取り出したそれは、明るい琥珀色の液体が詰まった酒瓶。 (・・・トキにもらったやつと同じ酒じゃねーか) 「カーレンでちょっかい出してきたチンピラからの戦利品よ。あんた、それ好きだったでしょ?」 「・・・あぁ。確かにな」 確かに、カインはこの酒を好んで飲んでいた。だが、これは一介のチンピラが手出しできるような安酒ではない。 多分これは、マイシェルが自分で買ってきたものだ。 そう思うと、自然に笑みがこぼれてくる。 「何笑ってんのよ?気持ち悪いわね」 「うるせぇ。単なる思い出し笑いだよ」 照れ隠しにそう言いはしたものの、マイシェルの目はごまかせないだろう。 いつだって彼女は、他人の胸中を敏感に察する。 (さーんきゅ) 面と向かって言うには照れくさすぎるから、心の中で呟くだけにとどめておく。 「ただいまー。って、何よこれ!?」 「うっわぁ・・・もしかして、これ、シチューだったりする?」 勝手口から入ってきた兄妹は、バケツいっぱいのどす黒い液体に恐怖した。 食べ物とはかけ離れた様相のそれを、ぱっと見ただけでシチューと判断するのは、さすが主夫と言ったところか。 「ヘンゼル、すごいですねぇ。正解です。一目見ただけでシチューと分かってくれたのはあなただけです」 ・・・これをシチューと思う者は、殆どいまい。 「あ、カイン!これ、私達からのプレゼントよ!」 「何が良いのかわかんなかったから、フローラに訊いたんだ」 そういってヘンゼルとグレーテルは、カインに向かって綺麗にラッピングされた箱を差し出した。 フローラに訊いた、という時点で中身は大体想像がついたので、ありがたく受け取っておくことにした。 「カイン。今のうちにしっかり寝ておいた方が良いよ?夜になったら盛大に酒盛りする予定だから」 「酒盛りかよ」 「そう、酒盛り。単に祝われるより、こっちの方がいいでしょ?飲みすぎには注意してね」 「・・・その忠告、ありがたく受け取っとく」 酒盛りならば、リュオンの言うとおりに寝ておいた方がよさそうだ。そう思い、カインは自室に戻るべくキッチンを出た。 途端、キッチンから飛んできた何かがカインの後頭部にクリーンヒットした。 振り返って足元を見ると、そこに落ちていたのは煙草の箱。 銘柄は『白夜』。 驚きはしたものの、何食わぬ顔でそれを拾い上げ、2階に通ずる階段を上った。 階段を上りきったところで急いで自室に駆け込み、しっかりとドアを閉めてから、もう一度煙草の銘柄を見直してみる。 間違いなく、それはカインが好んで吸う銘柄だ。 いつの間に知ったのだろうか。家の中では吸っていないはずなのに。 これを投げて寄越したのは、立っていた位置からして恐らくライかフローラだ。 投げて、しかも後頭部に当てたところを見ると、ライだろう。 何気なく箱を裏返して、そこにメモ用紙が貼り付けてあったことに気付く。 <Happy birth,CAIN.> 誕生おめでとう。そう書いてある。 意図的に「日」をとったのだろうか。 ふとヘンゼルとグレーテルにもらったプレゼントを見ると、それにも同じ事が書かれたメッセージカードが付いていた。 (誕生おめでとう、ねぇ・・・) もしもこの世に生を受けることがなければ、彼らと出会う事もなかった。 生まれてこなければ何も知る事はなかったのだから、寂しいと思うこともなかっただろう。だが、いったん彼らと出会ってしまった身と しては、それはひどく寂しいことだと思った。 ふいに、過去に囚われ続ける己が馬鹿馬鹿しくなった。 (紫影。どうやら俺は、一生苦しみ続けるには向かん性格らしい) だから、この短い人生を力いっぱい楽しんでみようと思う。 許せ。死したお前に未来はないと知ってなお、俺は光に満ちた未来を夢見てしまう。 お前の分まで苦しむのでなく、お前の分まで楽しむのでも、いいだろうか。 いいよ、とどこからか聞こえる事など期待していない。だから、自分で呟いてみた。 「・・・それもいい」 この「誕生おめでとう」のメッセージ2つは、大事に保管しておこう。 後記 そんなわけで、オマケです。 こっちはそれなりに明るめに作ったつもりなのですが、どうでしょう(訊くな) 今回の見どころは、フローラの手料理(嘘)。何気にきっちり書いたのは初めてですな。 どす黒いシチュー・・・何作ってんですか。 文中に出てくる『にんじんもじゃがいもも刻めば溶ける』というのは私の体験談から。 調理実習の時、やらかしました(爆) シチューなのにオレンジ色してドロドロでした・・・(遠い目) ちなみに、途中で出てくる「紫影」という人物の正体はヒミツです(蹴) 過去を書けない奴でやる話じゃなかったなぁ、と今さらながらに後悔。 up date 03.11.16 |
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