全ての悪夢の始まりは、たった一本の電話だった。 「はい、こちら霧島法律事務所です」 いつものようにマホガニーのデスクに座って書類に目を通していた帝は、とある重要人物からの電話を受け取った。 『ああ、帝?私だけど』 その声を聞いた途端、帝は勢いよく椅子から立ち上がった。ここしばらく聞いていないが、この声は間違いない。 あの御方だ。 『相変わらずの調子でやってるようね。あんたらしいわぁ』 「そうですか。それで、何の御用があってこちらに?」 『あの人のところに繋がんなかったから。あんたのところなら確実でしょう?』 ああ、と帝は相槌を打った。「あの人」とは霧島家の大黒柱・豪騎のことだ。 確かに彼女の言うとおり、豪騎と連絡が取れない場合は帝のところに電話するのが最善の手段だ。帝は常に、周囲が連絡を取りやすいよう心がけている。 「それで、御用件は」 単刀直入に帝は問うた。そう、ここに電話をかけてきた理由だけは聞かなくては。 まさか仕事の依頼ではないだろうな、と嫌なことを考えつつ、彼女の出方を待つ。 くす、と電話の向こうで彼女が笑う気配がした。 『帰るわ』 「・・・・・・・・・はい?」 『こっちでの仕事が一段落ついたのよ。だから、帰るわ』 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・それは、あの」 『うっさいわね。あたしが帰るって言ったら帰るのよ。いいわね?期間は明日から3日間。知らなかった、なんて言い訳は通用しない から。あっついお風呂と美味しい食事、それにふかふかのベッド。頼んだわよ。あの人にも伝えておいてね』 ――――プツッ。 一方的な要求と脅迫めいた台詞だけを残して、電話は切れてしまった。 明日、帰ってくる?あの御方が? 震える手で携帯電話を開き、帝は家族全員に緊急のメールを送った。 曰く―――――― 『母上が明日、帰ってくる』。 「!!!!!!」 昼休み、先ほどの授業の間に届いたメールを確かめていた慶陽は、本文を読むなり声なき悲鳴を上げた。 「どした?慶陽」 すぐ隣でコンビニ弁当を貪っていた二階堂が、友人の異様な態度に気付いて声を掛ける。が、慶陽は気付かない。ただただ携帯電話の画面 を見つめるばかりだ。 「・・・・・・慶陽?」 異様に重苦しい雰囲気を漂わせだした慶陽を心配し、二階堂と同じく――ただしこちらは自前の――弁当を食べていた健も声をかけた。 それでも彼は気付かない。 ならば、と肩を叩くべく手を伸ばした健の耳に、ごく小さな呟きが入った。 「・・・・・・・・・来る」 「え?」 「奴が帰ってくる」 今度ははっきり聞こえた。が、その声は異様に震えている。何かに対して怯えているようだ。 「二階堂、お前一人暮らしだったよな!?」 唐突に肩を掴まれた二階堂は面食らった。「あの」慶陽が怯えている。何かから逃げたがっている。生きた伝説とまで呼ばれている、あの慶陽が! 「一人暮らしだよな!?」 ぐらぐらと揺すぶられ、夢中で二階堂は頷いた。すかさず慶陽は問いを重ねる。 「今晩から泊まってもいいか!?」 「今晩!?」 いくらなんでもそれは急というものだ。「無茶言うな」と声に出して言うと、それまで鬼気迫る様子だった慶陽は一気に鎮静化した。 「そうか、そうだよな。でも、他に方法は・・・・・・!」 「何があったんだよ、慶陽。誰からのメールだったんだ?」 とりあえず事情だけも聞こうと訊ねた健には「帝」とただ一言だけ返ってくる。帝。確か慶陽の兄(の一人)だったはずだ。 「で、内容は?」 「『母上が明日、帰ってくる』」 「母ぁ?」 二階堂は素っ頓狂な声を上げた。どうしてその内容でそれほどまでに怯えるのか、二階堂には皆目見当がつかない。 健のほうも同じ思いらしく、頭上に浮かぶ幾つものクエスチョンマークが目に見えるような顔つきをしている。 「・・・・・・別に怖がる必要はないんじゃねえの?」 「お前らは奴の恐ろしさを知らない」 「母親を奴呼ばわりすんなよ」 いちおう突っ込んでみたが、やはり慶陽には聞こえていないようだ。 「奴が望むなら地球はいつでも逆回転しだすだろうよ。そういう奴なんだよあいつは!自然法則すら捻じ曲げかねない女王陛下だよ!」 壁に拳を打ちつけて嘆きだした慶陽を、二階堂と健は両側からそれぞれ宥めた。ただでさえ有名な彼が、この(奇怪な)行動。これ以上、嫌な意味で有名になるのは避けたい。 「どうどうどう。落ち着け慶陽。オーケイ?」 「お、オゥケイ・・・・・・」 ふらふらと慶陽の右手が挙がる。どうやら大丈夫そうだと踏んで、二人はそっと慶陽の肩を放した。 「ふ、はは・・・・・・追っ手が掛かりにくい場所っつったら、やっぱ富士山だよなあ・・・・・・富士山頂ならケータイの電波も届かねえだろうしなあ・・・・・・!」 「げっ」 錯乱した!?と二人が慌てたのもつかの間、慶陽の携帯電話が再び震える。それを取ってメール画面を開くなり、 彼は絶望に打ちのめされた表情で固まった。 二階堂と健は頷きあい、両側からその画面を覗き込む。 送信者は「帝」。タイトルは「追伸」。本文は――・・・・・・ 『逃げ出したりしたら許さない。』 「・・・・・・相当すげぇんだな、慶陽んちの母ちゃん」 「そうだね。兄貴のほうも切羽詰まってるみたいだしね」 慶陽を上回る凄さであろう兄までがこの様子ではしょうがないか、と二人は頷き合った。 「・・・・・・ああ、いい天気だなあ・・・・・・」 「そうだな、人はこういう天気を嵐の前の静けさと呼ぶんだろうな」 「実際、霧島家にとっての大嵐が来ますしね」 「ぴったりすぎて笑えないからやめてくれ」 母の帰宅当日、諦めに満ちた朝食の席。 美月と幼少組を除く兄弟全員が何かを悟ったように諦観の様子を漂わせていた。 「兄ちゃんたち、何でおかーさん嫌ってるんだよ?」 「そんなん、あの御方は恐れるべき存在だからに決まってるだろ」 「お前らはまだガキだから分かんねえんだよ、年取るにつれて厳しくなっていく対応の脅威をな」 相手の年齢に反比例して対応が優しくなるのは霧島ブラックサイドの共通点だ。美月然り、司然り。母も当然そちら側の人間だから、 そういうことになる。 幼少組相手であれば、笑顔も見せるし多少のわがままも受け入れる。しかし、年長組への態度ときたら! 黒い笑顔・黒い台詞・抜群の行動力。この三拍子が揃っているという時点で、並みの人物が応対していい相手ではない。 しかも彼女は相当な場数を踏んでおり、美月と司を従えられるほどの実力を持つ人物であるときた。きっと閻魔大王にも命令を下せる。 霧島年長組にとって、彼女ほど恐ろしい存在は他にないのだ。 「兄ちゃん、顔が真っ青だよ」 「そうですよ。いくら体調が悪くとも、きっちり摂るもの摂っておかないと」 美月の傍らで晶もこくこくと頷いている。どうやら兄たちを心配しているらしい。 「晶、心配してくれるのはお前だけだぜ・・・・・・!」 「気色悪いですよ黒曜」 晶に抱きついた黒曜に、美月の冷静な台詞が突き刺さる。酷い!としょぼくれる間もなく玄関のチャイムが鳴る。 年長組に戦慄が走った。 「き、きききき来ちまっ、た、・・・・・・?」 「でしょうねえ。出ますよ」 「ちょっと待て!」 「なんですか」 「まだ心の準備が」 「行ってきます」 有無を言わさぬ笑顔で応え、美月は玄関へと向かった。そしてすぐに戻り、「来ました」と面々に告げる。 |
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