その日、アビスは珍しく仕事を休んでいた。 なぜかといえば、ここのところの激務のせいか、熱を出して倒れてしまったのである。 「貴女は四大神です。仕事を休まれるより、無理をなさって倒れられてしまう方が困るのだと自覚してください」 アビス直属の七曜である海神カイトは、そう言って職務の最高責任者でもある時間の神クロノスに休暇届を出してしまった。 医学の女神ジュリにも往診を頼んで診てもらったが、やはり原因は疲労だと診断された。彼女にも「無理はしちゃだめよ」と釘を 刺されてしまったので、おとなしくそれに従っている次第である。 (神々の仲間入りしてから、こんな事はなかったんですけどねぇ・・・) アビスの司る水属性の特徴は、戦闘能力は他に劣る代わり、怪我や疲労には強いというものだ。 その長たるアビスの回復能力が水属最高であるのは当然である。 なのに倒れたという事は、回復能力をはるかに上回る激務を今までこなしていた事になる。 ちなみに、アビスが休暇をとったのはこれが初めてである。 (・・・これじゃ、倒れるのも当然ですね) 疲れが癒される前に仕事が加算されていくのだ。倒れるなという方が無理だろう。 「でも」 アビスは、声に出して呟く。 「こういう時って、暇すぎて困るんですよね・・・」 普段は欲しい欲しいと思っている自由時間なのに、いざたっぷり与えられると逆に持て余してしまう。 暇つぶしといえば読書くらいしかないが、書架に詰まっている本は読み終えてしまったものばかりだ。 ならば誰か話し相手の一人でもいれば、とも思うが、あいにくとここにはアビスの他に誰もいない。 かと言って、わざわざ誰かを呼ぶのも気が引ける。 そんなことをつらつらと考えていると、突如頭の中に声が響いた。 「!?」 綺麗に澄んだ、男とも女ともつかない声。 それが響いたのはほんのわずかな間で、いくら耳を澄ましてももう聞こえない。 (・・・聞き間違い、でしょうか?) 熱に浮かされて聞いた幻聴かもしれない。そう思ってアビスは苦笑した。 (これしきの熱で、ここまで参ってしまうとは) よく考えてみれば、この部屋にいるのはアビス一人なのだ。声の主が一体どこにいるという? この、大して広くも無い部屋に誰かが隠れられるスペースなどは無いに等しいし、たとえその「誰か」がいたとしても、戦場で戦い慣れた 剣士であるアビスが気配を読み逃すとは考えにくい。 それに、先程の声には全く聞き覚えがない。ということは、天界の者ではありえない。 (やはり、幻聴でしょうね・・・) 瞬間、今度は強烈なイメージが頭の中を駆け抜けた。 薄暗い洞穴。そこに満ちた青緑の光。揺らめく水面。戒める鎖。 黒い刃を持つ大剣。 再び響いてきた声は、幻聴と言って否定できるようなか細いものではなかった。 アビスはその声をはっきりと聞いたし、イメージはまぶたの裏に焼きついているかのようにくっきりとした形を保っていた。 (・・・今のは) 今のは何なのか、と誰かに問いたかった。が、ここにそれを問えるような人物はいない。 声の正体は皆目分からないのに、なぜだか『行かねばならない』と思った。 アビスの理性は危険だと叫んでいる。しかし、本能が止まらない。 見えない糸に引きずられているような感じがした。 万一の時のために書置きを残し、愛用の剣を掴んでアビスは部屋のドアを開けた。 行く先は、分かる。確かに呼ばれている。 確信があった。 <ゼウスの神殿へ行ってきます。―――Avis> ゼウスの神殿までの道のりを、アビスは覚えていない。 歩いてこれる距離ではないはずなのだが、不思議と騎乗してきた記憶も無い。 だが、アビスはゼウスの神殿にいるのは確かだ。ここを守っていた衛兵は、間違いなくゼウス直属の部下達だった。 こういう時に四大神の立場が役立つ。仕事上頻繁にこの場所を訪れるアビスを、衛兵は疑いもしなかった。 (声・・・聞こえるのは、どっち?) 熱のせいか、ひどく視界がぼやけている。神殿の内部の記憶と、視力以外の五感に頼るしかなかった。 そんな頼りない状態でも、行くべき方向だけは分かる。 声が呼ぶ。アビスが進む。その繰り返しだ。 いつの間にか、あのイメージの中にあった洞穴の中にいた。 神殿から入ることができたということは、ここは地下なのだろうか。頬に湿った空気を感じた。 光の無い洞穴の中は薄暗い。いくら夜目が利くアビスでも、こうも視力が低下していると凡人並みの感覚しか得られなかった。 どこかで水滴が垂れる音がした。 迷わないよう壁に手を付き、慎重に歩いていく。なぜか恐怖感は無い。 アビスを呼ぶ声が、あまりに美しく澄んでいるからかもしれない。 ごつごつした壁の感触が、ふいに人工的に平らにされたような感触に変わった。 同時に、曲がり角に達した事も手のひらから伝わる感覚で理解する。 道が続いているであろう方向へ顔を向けると、そっちから青緑の光が差していることも感じられた。 これも、あのイメージと一致する。 じっと眼を凝らすと、どうやら足元は階段状に削られているらしいことがかろうじて分かる。 足を滑らさないよう、ゆっくりと一段ずつ降りていく。 ぐるりと壁伝いに歩いてみて、その部屋で行き止まりになっているのだと分かった。 そこは、どう考えても人口の空間だった。 真四角に削られた部屋。平らにされた壁と床。自然にできたものではありえない。 (誰が・・・何のために?) 周囲を見渡すと、部屋の中央に石の棺らしき長方形の箱が置かれているのが分かった。あの青緑の光はそこから溢れているらしい。 それは水で満たされているようだ。青緑の光が揺れている。 そっと、近づき、中を覗き込んでみる。 途端、見てはいけない深淵を覗き込んでしまったような気がした。 棺を満たす鎮めの清水。厳重に鎖で戒められた、黒い刃を持つ大剣。 泣きたくなるほど、あのイメージと一致した。 その大剣の名を、【死神】という。 精霊王ロータスの『媒体』だったという、幻の剣。アビス自身も古い文献の挿絵でしか見たことが無かった。 触れたものの命を瞬時に奪う、まさに【死神】と呼ぶにふさわしい魔剣。 アビスは、この剣に呼ばれていたのだ。 死神に魅入られてしまった。 もう、逃げる事はできないのだろう。この剣がアビスを呼び続ける限り。 頭の中で声がする。 ひょっとしたらこれは、悪い夢なのかもしれない。そう思えるなら思いたかった。 なのに、青緑の光を浴びた途端、アビスの視力は霧が晴れるように回復してしまった。 禍々しいのに見つめずにはいられない【死神】が、これを夢だと思うことを許さない。 何かに憑かれたように、アビスはその呪われた大剣に手を伸ばす。 ゆっくりと水の中に手を差し入れ、鎖を外す。 すっかり開放された【死神】の柄に、そっと触れる。 その途端、水の中から【死神】の姿が消えた。 それと同時に、アビスは手から体の中に冷たい何かがひゅっと入ってきたのを感じた。 (!?) とっさに手を引いたが、もう遅かった。 (熱い・・・・・・何ですか、これ・・・・・っ!?) アビスの体内に侵入してきたモノは氷のように冷たかったのに、めまいがするほど体が熱い。 「・・・っ!」 それまでは消え去ってしまったかのようだった頭痛や倦怠感が一度に襲い掛かってきた。 もう暑いのだか寒いのだかすら分からなくなってきた。 目が回る。回っているのは自分だろうか、世界だろうか。 【死神】と共に青緑の光も消えてしまった。また視力は役に立たなくなった。 ―――――――そういえば、【死神】はどこへ行ってしまったのだろう? 目覚めた時には、すでにベッドの上だった。 まず視界いっぱいに飛び込んできたのは、心配そうな表情をした金髪の少女。 「・・・セイディア?」 小さく名を呼ぶと少女は大きく目を見開き、アビスには見えないどこかに向かって叫んだ。 「リー兄―――――――っ!ジュリ姉――――――っ!アヴィ姉が起きたぁ――――――――っ!」 すぐにばたばたと複数の足音が駆けてくる。 「アビス!?ちゃんと起きたのね!?生きてるのね!?」 まだアビスの頭ははっきりと覚醒していなかったが、薬品の匂いで自分に抱きついているのが医学の女神ジュリであると把握できた。 「起きたのなら生きてるのが普通ではないかと」 「うるさいわね、心配くらいさせなさい!あんた5日も眠ってたのよ!?ほんとに死んじゃうかと思ったんだからっ!」 「体調がすぐれないとか、何か変わったところはあるか?」 この冷静な声は、医術の神リートだろう。思って、アビスは気付いた。 また、視覚以外の部分で物事を把握している? 「目が・・・」 視力が極端に低下している。これは一体どうしたことだろう。 「見えないのか?だったらマズイな・・・」 心配そうに呟くリートに、慌ててアビスは首を横に振った。 「いえ、失明してしまったわけではありません。ただ、少しばかり見えにくいだけで、す!?」 どうにかして焦点をあわせようと試みた途端、ふいに目に映る人数が増えた。 「どうしたの?」 問いかけてくるジュリの背後に、白い影が見える。茶髪の女性だ。 「どこか痛むのか?」 リートの後ろには、茶色い老犬を抱いた品のいい老婆。 アビスの顔を覗き込んでいるセイディアの後ろには、彼女によく似た金髪の少年。 みな、見覚えの無い顔だ。こんな神々はいなかったはず。 恐る恐る、アビスは自分の背後を見る。 「っ・・・いやあぁぁぁあっ!!」 そこには、かつてアビスが殺した悪魔達の顔があった。 たくさんのうつろな目がアビスを見返す。 アビスは、再び意識を失った。 シヴァが医療殿を訪れたのは、その直後だった。 「まだ寝てんのか」 「いや。一度目覚めたんだが、また気絶してしまったんだ」 シヴァの呟きに、リートが丁寧に説明する。 「振り返って自分の後ろを見た途端、悲鳴を上げて、倒れた」 「・・・後ろ?」 だが、そこには悲鳴を上げたくなるようなものは何もない。 「シヴァ。あんた『ゼウスの神殿の中で倒れてるアビスを見つけた』って言ってたわよね。これは、それと何か関係あると思う?」 「あぁ」 即座にシヴァは頷いた。 アビスは常に慎重だ。何の考えもなしに敵陣に乗り込むような、無謀な真似はしないだろう。 そのアビスが、体調の悪い時にわざわざそこまで出かけていったのだ。何かあるとしか思えない。 「ついでに訊くが、アビスは死んでねぇんだよな?」 「当たり前じゃない。アビスが死んでたら、あんたも死んでるわ」 不機嫌そうにジュリが答えた。 ―――双子の神は、繋がっている。 どういう理屈かは知らないが、双子の一方が死ねばもう一方も生きてはいられないのだ。 シヴァは生きている。だから、アビスも生きているという事になる。 「じゃあ、最近ここで死んだ奴はいるか」 再びシヴァは問うた。 「いない」 リートの答えを聞いて、シヴァは眉根を寄せる。 (・・・だったら、この死臭はなんだってんだ) 死臭だけではない。アビスにまとわりついている黒い霧のようなものも、シヴァの目には映っていた。 昨日までは、こんなものはなかった。 明らかに異常だ。 生命の源たるシヴァにとって、この死臭と黒い霧はたまらなく不快だった。 (アビスは生きてる。最近ここで死んだ奴もいない。・・・なら、何が原因なんだ) いくら考えても、答えは出そうに無い。 (仕方ねぇ、か・・・) シヴァは深いため息をつき、あまり呼びたくない奴を呼ぶことにした。 本当のことを言えば、あまりあの男とは関わり合いたくないのだが。 「・・・ヘルメス。聞こえてるなら来い」 最後まで言い終えたか否か、という時にはすでに、その男は彼らの元に到着していた。 伝令神ヘルメス。彼は、この世に存在する何者より速く天空を駆ける。 「呼んだ?」 ヘルメスはどこまでも底の読めない笑顔を浮かべた。 シヴァはこの笑顔が苦手だった。 「呼ばなきゃ貴様は来ねぇだろ」 「当然」 (この野郎・・・) 殴りたくなるのを必死に抑え、シヴァは何とか言葉を喉からひねり出した。 未だ気を失っているアビスを指差す。 「こいつを、冥府まで連れて行ってやってくれ」 「はぁ?」 ヘルメスは訳が分からない、という目をした。 いや、彼だけではない。リートもジュリも、セイディアまでもが不思議そうな目でシヴァを見ていた。 (何かすっげぇ屈辱・・・!) シヴァ以外の者は死臭も黒い霧も感じていないようなので当然といえば当然のことなのだが、やはり屈辱だ。無意味に。 自分の言っている事がすぐには理解されない事も承知のうえで言ったのだが、それでも屈辱を感じる。無意味に。 とりわけ、ヘルメスに『何を言ってるんだこのバカは』という目で見られているのが不愉快だ。 確かに「生きている者を冥府に連れて行く」ということが普通では考えられないことだというのは自覚している。 しかし、これしか解決策が思いつかないのだから仕方ない。 「・・・別に、アビスに死ねって言ってる訳じゃねぇ。お前ならハデスに会う方法も知ってるだろ」 不機嫌さを隠し切れない声で、シヴァは言った。 死に関することは、死を司る者に。 これが、シヴァが思いついた解決策だった。 冥王であるハデスならば、きっとこの原因も知っているはず。シヴァはそう考えたのだ。 ヘルメスは天空を駆け、神々の伝令を伝える。それと同時に、死者の魂を冥府に案内する役目も負っている。 だからこそ、シヴァは彼を呼んだ。 「それ、本気?」 ヘルメスは問う。 「本気だ」 シヴァは答える。 両者とも、決して視線を逸らそうとはしなかった。 やがて、シヴァの「本気」を認めたのか、ゆっくりとヘルメスが目を逸らした。 「分かったよ。連れてく」 ヘルメスは見かけによらぬ力強さでアビスを抱き上げる。 「ちょっと、二人とも何考えてんのよ!?」 ジュリがヘルメスを止めようとしたが、もう遅い。 この世の何者より速い足を持つヘルメスは、すでにアビスを連れて冥府へと駆け出していた。 |
up date 03.10.02.
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