アビスが目覚めて最初に見たのは、薄暗い部屋の天井だった。 アビスの私室のものでも、医療院の病室のものでもない。 ゆっくりと半身を起こして軽く室内を見回すと、そこはどうやら誰かの寝室らしい。 必要最低限の生活用品しか見当たらない、殺風景なまでに装飾品のない部屋だ。 そこが誰の寝室かと考え出す前に、低い男の声が耳に届いた。 「目が覚めたようだな、月令司」 耳慣れない、声。この部屋の主だろうか。 コツッ、と足音がした。薄暗くてよく分からないが、どうやら男が室内に入ってきたらしい。 ゆっくりと首をめぐらし、視線を入り口に至らせる。そこには、見知らぬ男が立っていた。彼が先ほどの耳慣れぬ声の主だろう。 切れ長なアメジストの双眸。指どおりの良さそうなストレートの黒髪。男性にしては綺麗な容貌をしているが、彼には生気が欠けていた。 日の光を浴びたこともないような青白い肌は、まるで死者のようだ。 闇色のローブが、いっそうその雰囲気を引き立てていた。 敵意は感じなかったが、その無表情な顔の下では何を考えているか分からない。 「・・・・・・ここは」 男に気付かれぬよう静かに身構え、アビスは訊ねた。 「冥府だ。もっと言うなら、私の寝室」 ということは、ここは冥府―――死者が訪れる、裁きと安息の地なのだ。 死者の他、ここにいる者は唯一人。 彼がそうなのかもしれないと思いながらも、アビスはあえて質問した。 「・・・・・・あなたは、誰なのですか」 返ってきた答えは、予想通り。 「ハデス。―――・・・・・・否、冥王と名乗った方が、お前にとっては馴染み深いかもしれん」 では、やはり彼が冥王なのだ。 死を司る、神。 アビスのわずかな動揺に気付いたのか気付いていないのか、ハデスは淡々と言葉を紡ぐ。 「ヘルメスがお前を連れてきた。お前の兄がそう指示したそうだ」 「・・・・・・シヴァ、が?」 「あぁ。何故なのかは分かっているな?」 分かりすぎている。そうアビスは思った。 シヴァは恐らく、「死に関することは、死を司る者に」とでも考えたのだろう。・・・・・・アビスも、己にまとわりつく死臭に気付いていた。 原因は、一つしか考えられない。 【死神】。 アビスが【死神】を手に入れてからまだ何時間もたっていないが、それは確実に彼女の心身に影響をもたらしだしていた。 「しかし、・・・・・・まさか、【死神】に認められる者がいるとはな」 そう呟き、ハデスはアビスを見つめたまま沈思した。 決して重苦しくない、独りで目を閉じている時のような静寂。 ふいにハデスは手を伸ばし、アビスの左腕に触れた。 「ここに」 アメジストの瞳がアビスを見る。 「痛みや違和感はあるか?自分のものではないような感覚や、締め付けられる感覚は」 「・・・・・・いえ」 「袖を捲くっても?」 どうぞ、というのも何か憚られ、アビスは自分でそっと左の袖を捲くった。 「っ・・・・・・!」 それを見た時の衝撃を、どう表現すればよいのだろう。 目の前が真っ暗になるような。あらゆる光が閉ざされてしまったような。そんな言葉では生ぬるい。 死刑を宣告されるより、もっとひどい絶望。 毒々しいまでに黒い蛇の紋様が、刺青の如くアビスの肌に刻まれていた。 「確かに【死神】の紋章だ。・・・・・・では、間違いないな」 衝撃のあまり声も出せないアビスに、静かにハデスが呟く。 「お前は正真正銘、【死神】の保持者となった。・・・・・・やっかいだぞ」 そんな事は分かっている。アビスはそう叫びたかった。 あれほどまでにアビスを悩ませていた頭痛や倦怠感は、すでにない。数日前の戦で負った、毒の刃の切り傷ですら、もはや包帯の下で血を 流している感触はなかった。 アビスの回復能力の高さを考慮しても、信じられないスピードだ。 まったく、なんという皮肉だろう。 アビスが死を望む、その原因である【死神】が、アビスを生かそうとしているのだ。 (これが、【死神】の呪縛・・・・・・) この先にあるはずの未来の全てをかなぐり捨てたくなるほどの絶望に駆られても、その根源がそれを許さない。 ―――あんな禍々しいものの保持者と認められた? それだけでもう、死を望むには十分ではないか。 しかしアビスは知っていた。【死神】の、最も嫌悪すべき性質を。 「【死神】は死者の魂を狩る剣。血と争い事とを最も好み、・・・・・・持ち主を、破滅に導く」 呟いた声は深い深い絶望の色を帯びて、静寂の中にとけて消えた。 なぜ、争いの方からこっちに向かってくるのだろう。なぜ平和でいられないのだろう。 アビス自身は戦火など望んではいない。むしろ憎んですらいるというのに、【死神】はそれを好むのだという。 これから自分は【死神】に操られ、望まぬ殺戮を繰り返すのだろうか。そう考えてアビスはぞっとした。 (確かに、・・・・・・私は破滅するでしょうね) こんなにも憎んでいる戦を幾度となく強いられ続ければ、アビスの精神の方が病んでいくだろう。 それは確実な未来だった。 「・・・・・・絶望するにはまだ早い」 ふいに耳に届いた、喉元にナイフを当てられるような、静かな危険性を孕んだ声にアビスは顔を上げた。 アメジストの瞳と視線がかち合う。 ゆっくりと、ハデスは口を開いた。 「【死神】がもたらした変化は、恐らくそれだけにはとどまらない。・・・・・・お前は半神半魔だったな」 アビスがそれに頷くと、ハデスは息を吐き出して宙をにらんだ。 「やはり、そうか。・・・・・・ならば、あれを見せておく必要がある・・・・・・」 目を閉じ、ハデスは踵を返した。「ついてこい」と手で示す。 慌ててアビスは立ち上がり、迷いのない足取りで進んでいくハデスの、その闇色のローブの背についていった。 ハデスの屋敷はゼウスの神殿に負けず劣らず広大だったが、人がいる気配は全くなかった。 おまけに真冬のように寒く、幾つもの松明があるにも関わらず、薄暗い。とても生ある者が住める場所だとは思えなかった。 (ここが、冥府・・・・・・) 死者が裁きを受けるこの場所で何を知らされるのかを思い、アビスは不安になった。 『絶望するにはまだ早い』。ハデスはそう言った。ということは、嬉しい知らせではありえない。 これ以上の絶望などない。左腕に刻まれた紋章を見た時、アビスはそう思った。 あるのだろうか。これ以上の絶望が。 無意識のうちにアビスは、左腕に爪を立てていた。 と、ふいにハデスが振り返り、アビスを見下ろした。 「・・・・・・やめておけ」 爪を立てるのをやめろ。と、という意味だろうか。アビスはハデスを見返した。 「傷む」 「・・・・・・何が、です?」 「お前の魂が。それほどまでに質の良い魂を持っている者は少ない。・・・・・・自ら傷つけるなどという真似はやめてくれ」 どうやら彼は、美しいものが傷付けられるのを見て眉をひそめる、それと似通った感情を、腕に爪を立てるアビスを見て感じたらしい。 肉体を持たない神々は、魂そのものでできていると言っていい。体の傷はすなわち魂の傷だ。 アビスは複雑な気分になった。【死神】の紋様は平然と眺めやるくせに、それに爪を立てる姿を見て嫌悪するとは。 その上彼は、この穢れた魂を美しいと感じているらしいのだ。―――どう受け止めればいいのか分からなかった。 「行くぞ」 アビスが腕から手を放したのを見て、ハデスは再び歩き出した。 冥王は変わり者だと聞いていたが、彼は本当に不思議な男だ。 闇が人の形を取ったかのような姿の、その背についていきながら、アビスはぼんやりと考えた。 夜の海に似ているかもしれない。 この上なく静かで優美で、この上なく危険で畏怖すべき存在。 そうか、とアビスは思った。 (――――――・・・・・・これが、死の具現した姿) 神の姿は魂の姿、自然と司るものを象徴する姿になるという。 性質もまた同じように、司るものに通ずるものがあるのだそうだ。 確かにハデスは、死を司るのにこれ以上ないと言っていいほどふさわしい形質をしていた。 暗黒の着衣と髪は生の終わりを、鋭く輝くアメジストの瞳は裁きの厳正さを連想させる。 誰にも平等である、死。 彼はまさしく冥王だ。 「着いたぞ」 唐突にハデスは足を止めた。その背にぶつかりそうになりながら、アビスもそれに倣う。 気付けばそこはすでに回廊ではなく、どこかの広間のようだった。 一段高い壁際の中央に置かれた立派な椅子と、その横に石版が一つ。 椅子の背後には何か大きな板のようなものがあり、それには布がかけられていた。 「・・・・・・ここは?」 「裁きの間だ。死者の魂を裁く場所。そしてあれは」 ハデスは布がかけられた板のようなものを指した。 「瑠璃鏡という。死者の魂の、本来の姿を映し出す鏡だ」 興味深げにそれを見つめるアビスを、ハデスは肩越しに見やった。 「お前は、あの鏡を覗く必要がある。【死神】の保持者となったのなら、絶対に見ておかねばならない」 静かに、しかしきっぱりとそう言われ、アビスは黙って頷いた。 「鏡の前に立つがいい。・・・・・・己の本来の姿から、目を逸らすな」 その言葉に、アビスは目を閉じて再び頷いた。 分かっている。あの呪われた大剣を手にした以上、この鏡に映る姿が清廉そのものだなんて思ってはいない。 どんな化け物が映ったとしても、おかしくはないのだから。 アビスはゆっくりと鏡の前に移動し、深く息を吸って背筋を正し、顔を上げて鏡をまっすぐに見た。 それを確認し、鏡の横に立ったハデスは、そこにかけられていた布を引いた。 するり、と布が外れ、アビスは瑠璃鏡と対面した。 そこに映っていた人影は、三つ。 一つはハデス、一つはアビス。 そして、もう一つは。 (・・・・・・これは・・・・・・) なんということだろう。絶望を上回る絶望をアビスは見てしまった。 鏡に映る三つめの人影。その顔立ちはアビスに良く似ている。 しかしその髪と瞳の紅が、彼はアビスでないことを証明している。 理由もなく相手を不安にさせる笑みを浮かべ、神父の服を着て聖書を携えている、彼。 彼のその背には、人にも精霊にも、ましてや神にも持ち得ないモノが生えていた。 ―――漆黒の翼。 それは、紛れもない悪魔の姿だった。 「この、男は」 それだけ言うのでアビスは精一杯だった。声が上手く出てこない。 アビスの怯えを喜ぶかのように、アビスと寄り添って鏡に映る男は笑みを深いものにした。 その唇がゆっくりと動き、己の正体を告げる。 アビスが最も知りたくて、最も知りたくない言葉を。 『俺は、お前だ』 (・・・・・・聞きたくない、見たくない・・・・・・―――!) アビスはきつく目を閉じ、耳を塞いだ。 それでも、瑠璃鏡に映った姿は瞼の裏に焼きつき、アビスを苛む。 自分は半神半魔なのだ。そう、まざまざと思い知らされた。 しかし、いかに魂の姿を映し出すという鏡といえど、映し出される者が半神半魔であろうと、神と悪魔双方の姿が映るなど通常ならあり 得ない。そのことにアビスは気付かなかった。 では、何故そんな事が起きたのか。ハデスはその理由を知っていた。 (―――やはり、【死神】が媒体と化してしまったのだ) 瑠璃鏡から必死に目を逸らそうとするアビスを見ながら、ひどく静かにハデスは思った。 半神半魔は神にも悪魔にもなれる、不安定な存在だ。それが双方の性質を提示することなく、どちらか一方として存在できるのは、媒体 が一つしかないからに他ならない。 一つの媒体に神魔双方の魂が結びつくことは不可能、二つの媒体を持つこともまた不可能。故に通常は、半神半魔といえど双方に属すること はできない。 ――――――そう、通常の半神半魔ならば。 けれどアビスは通常の半神半魔ではなくなってしまった。【死神】保持者となったが故に。 【死神】は、アビスの体内にある。ヘルメスが連れてきた彼女を見た途端、ハデスはそう直感した。 アビスは二つ目の媒体を手に入れてしまったのだ。 (しかも、これは・・・・・・想像以上にたちが悪いな) 苦々しい気持ちでハデスはアビスを見つめた。 アビスと共に瑠璃鏡に映った者、その者の名もまたハデスは知っている。 かつて一度死に、冥府を訪れるはずだったところを遁走し、行方をくらました稀代の大悪魔。 魔界の第二王子、ルシファー。 (人界まで逃げた上・・・・・・月令司に宿ったのか) ハデスは歯噛みしたい気持ちになった。こんな事があっていいのだろうか。 人の体内に入り込み、宿主の魂を食らってしまえば肉体を手に入れられる。かつてもそのようにして、記憶も霊力も保ったまま人間とし ての生を手に入れた者はいた。 けれど通常なら、肉体の方がそれに耐えられない。それを可能にしたのは、アビスが半神半魔だったおかげであろう。 その半分の神の血ゆえにアビスの魂は無事だったが、もう半分の悪魔の血にルシファーは宿ったのだ。いつか魔界に帰り、再度そこに君臨する時のために。 アビス自身は気付いていなかっただろうが、彼女は二つの魂を持っていたのだ。そして媒体もまた二つ揃ってしまった。 アビスが半神半魔だというだけでも十分に危険なのに、これではひょっとすると最悪の事態が実現してしまうかもしれない。 ルシファーが【死神】を媒体としてアビスから独立し、神の血の呪縛から解き放たれるということ。 それは猛獣を檻から出す行為にも等しい。 しかしいつかは魔界側もルシファーの存在を知るだろう。 こんな事があっていいのだろうか。ハデスは再び考えた。 自分の目前で絶望に打ちひしがれている少女は、ただそこに存在するだけで生命を危険にさらす。己だけでなく、周囲も含めて。 魔界は第二王子たるルシファーを奪還しようとするだろう。天界は四大神たるアビスを奪われまいとするだろう。 その騒動に他者が巻き込まれない確率は、きわめて低い。 その上ルシファーはいつ独立して戦禍をもたらすか知れず、神魔双方に不可欠な死者の魂を狩れる【死神】もまた災いの種となりかねない。 (・・・・・・争いが起きるな) 恐らく、天界と魔界の間で、これまで以上に激しい争いが起きるはずだ。この半神半魔の少女をめぐって。 双方が彼女の所有権を訴え、彼女を我が物にしようとするだろう。 ―――――戦が始まる。歴史に名を残すほどの、激しい激しい戦いが。 確信し、ハデスはアビスに・・・・・・全てを拒絶するかの如くに小さく縮こまっている少女に向かって、静かに声を降らせた。 「アビス公よ、顔を上げよ」 しかし動く気配はない。ハデスは軽いため息を一つつき、瑠璃鏡に元通り布をかけ直した。 ルシファーの顔が隠れる。寸前、彼はハデスに向かってちらりと嘲りを含んだ笑みを見せた気がした。 それも一瞬の事だ。ハデスはすぐにアビスの方に向き直る。 「瑠璃鏡は閉ざした。悪魔の姿はもうないが」 恐る恐る、アビスは顔を上げる。その表情には未だ怯えの色が浮かんでいるものの、彼女はハデスとしっかり視線を切り結んだ。 「あの者の名はルシファー。お前も一度は耳にした事があろう」 かすかにアビスが頷く。ルシファーの名は、天界でも有名だった。 「これを持っていろ。必ずお前の役に立つ」 ハデスは、ごく自然な仕草で何ともつかない色をした水晶球を差し出した。 アビスはそれをそっと受け取り、手のひらで転がして眺める。角度によって色が変わって見えた。 「・・・・・・これは?」 「魄玉(ハクギョク)という。名の通り、魄―――地上を彷徨う死者の魂を吸い込む。これがある限り、誰かの背後に幻影を見ること はなくなる。見る前にそれが吸い込むからな。それに、むやみに他人を殺めたくなる衝動も落ち着くだろう」 何故、とはアビスも訊かなかった。 無意識のうちに、【死神】は食事の代わりに魂を欲するのだと分かっていたからだ。【死神】が戦を好むのもそのせいだろう。 ハデスは言葉を続ける。 「それを使って【死神】を暴れさせずにおけば、【死神】と共鳴してルシファーが目覚める事もあるまい。だが何より重要なのは、お前 が精神をぐらつかせることなく在り続けることだ。そうすればあの男も容易にはおぬしを支配できまい」 ならば、もう駄目だ。そうアビスは思った。 近いうちルシファーはアビスを支配する。・・・・・・こんなに精神がぐらついているようでは。 しかしアビスは黙って頷き、ハデスに背を向けて裁きの間を退出した。 もう何も考えたくなかった。 |
up date 04.02.29.
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