「アビス様、準備はよろしいでしょうか?」
「ああ、今行く」
典礼庁の者に呼ばれ、アビスは控えの間を後にした。正装の青いマントが翻る。
創世記念祭。普段は散り散りになっている天界在籍者が一堂に会する唯一の日。それぞれの無事を確認する意味もあるため、 よほどの理由がない限り欠席は許されない。欠席する場合も、やむを得ない場合を除いて許可が必要。
(・・・・・・面倒な記念日があったものだ)
前を歩く典礼史に聞かれぬよう、アビスは内心で溜息を漏らした。こんな行事、なくなってしまえばいいのに。
実を言うとアビスには、天界在籍者全員の前でゼウスに忠誠を誓える自信がなかった。不忠の心を持っていながら平然と「変わらぬ忠誠を 捧げます」などと言えるだろうか?――自分には、できない。
「ようやく来たか」
会場袖では、すでにシヴァが待っていた。ぴしりと着込んだ正装と蜂蜜色の髪のおかげで、普段とはだいぶ印象が違う。
「普段からそうしていれば、神だということを疑われたりはしないだろうに」
「やかましい。こんな堅っ苦しいのは年に一回だけで十分だ」
シヴァは嫌そうに顔をしかめた。おそらく自覚があるのだろう。
が、どこか様子がおかしい。
そっと様子を伺えば、そこには明らかな緊張の色があった。
珍しい、とアビスは意外に思った。この男が緊張しているところなど初めて見る。過去の式典では、こんなに――少なくとも、周囲に 悟られてしまうほど明らかに緊張した様子はなかったのだが。
何かあったのだろうか?
「時間です」
問い質す前に、典礼史が時を告げる。もうすぐ式典が始まるのだ。
「入場を」
シヴァが先に立ち、会場内へと入場していく。向かい側からクロノスとガイアが、同じようにして入ってくるのが見えた。
シヴァとクロノスが鉢合わせする直前で、四人全員が立ち止まって正面を向く。正面にはヴェールで覆われたゼウスの玉座が据えられている。 その最も近い場所に四令司、四令司の後ろに七曜。さらにその後ろには、各属性ごとに定められた色の衣装をまとった八百万の神々が 居並ぶ。壮観だった。
(そうしたら次は、跪くのだったか)
入場、並んで、跪いて、ゼウスの声が掛かったら立ち上がる。式の手順は、確かそういう風になっていた。
(――――跪く?)
敬意を表して。忠誠を誓って。
天帝閣下に頭を下げよ。
(どうして、そんなことができる)
自分は彼に背くことを決めた。そうである以上、彼に頭を下げることなどできはしない。
アビス以外の十二神が、揃ってゼウスに跪いた。
今ならまだ間に合う。段取りを忘れていたからだと思ってもらえる。
しかし、足が動かない。
「アビス?」
シヴァが訝しげにアビスの名を呼ぶ。こっそり見上げられているのも分かったが、そちらに視線を寄越すことができない。
まるで人形になってしまったかのようだ。
どうしたんだ、と背後からざわめきが聞こえてくる。何をやっているんだ、何かあったのか。
分からない。
自分にも分からないまま、体が言うことを聞かなくなってしまった。
(頭を、下げるんだ)
自分に必死に言い聞かせ、アビスは跪こうとした。その瞬間、ゼウスの声が投ぜられる。
「・・・・・・どうした、月令司公」

嫌だ。

ふいに吐き気がこみ上げてきた。できない。こいつに頭を下げるなど。
頭のどこかで、嘲るような笑い声が聞こえた気がした。
「っ!?」
唐突に手足の感覚が失われだし、アビスは狼狽した。なんだこれは!?
末端から、血が引いていくように感覚が消えていく。まるで、これは。
誰かに体を乗っ取られるような。
視界が霞む。思考がぼやける。手足の感覚はすでにない。
駄目だ。

そしてアビスは、自分の内へと深く沈んだ。



クッ、と喉で笑う音がして、シヴァは視線を持ち上げた。
「・・・・・・アビス?どうした」
シヴァの問いかけには答えず、アビスは顔を上げた。誇るように、堂々と。
「貴様などに下げる頭は持っておらん」
はっきりとアビスはそう告げた。誰もが耳を疑うような台詞を、面と向かってゼウスに吐いたのだ。
一瞬の静寂の後、侮蔑と罵詈雑言の嵐がアビスに向けて巻き起こった。この恥知らずめ、何たる暴言を、だから灰神は駄目なんだ。
しかし、当のアビスはそんなものに耳を傾けてはいなかった。
目前にある、ヴェールに覆われた玉座を見上げ、アビスはもう一度、暴言を口にした。
「もうろくしたな、天帝閣下。俺がいることを知りながら、この女を手元に置き続けるとは」
その台詞で、熱狂していない者は異変を悟った。
アビスは男装を始めたが、一人称までは変えていない。
なのに。
「――・・・・・・まさか」
気付いた者の顔に怯えが走る。ニィ、とアビスの顔をした「誰か」が笑った。
「お前らの月は闇の中だ。――どうせ、いらんのだろう?だったら構わんではないか」
不意に横から黒水晶の槍が伸びてくる。とっさに彼は腕を上げた。金銀の腕輪が盾代わりになる。
「勝手なこと言ってんじゃねぇ!」
「地令司公か。よほど仲間を思う気が無いと見える」
「何を――・・・・・・」
「今は俺が支配しているが、俺が月令司公であることに変わりはないのだぞ?仲間を殺すつもりか」
ガイアは言葉を失った。激情に駆られて刃を向けたものの、それでは攻撃できないではないか!
「それに」
ぐっ、と彼は腕に力を込めた。槍の穂先が押し返される。
「いくら槍の形をしているとはいえ、刃のない穂先で何ができる」
彼は掌中に生んだ黒炎を放った。蛇のようにガイアの槍に絡みつく。ガイアは素早く槍を振って炎を払った。
その、炎。
群衆がざわめきだした。神なら誰もが知っている、悪魔の黒炎。王族だけが持つ力。
正体を知ったシヴァは思わず叫んだ。
「貴様――・・・・・・!」
「呼ぶなシヴァ!」
気付いたクロノスが制止する。しかし、もう遅かった。

「――――ルシファー!」

その途端、「アビス」の姿が揺らきだした。髪が、瞳が血の色に染まる。体格が男のものに変化する。
名を得た男は会心の笑みを浮かべた。
「よく言ってくれた、愚か者め!褒美をやろう!」
「―――・・・・・・っ!」
不快な音とともにシヴァの腹部に剣が刺された。背中まで貫通したその刃に、群衆が悲鳴を上げた。
「いや・・・・・・、【死神】―――!」
居並ぶ神々の列が崩れた。事態を察した者から我先にと逃げていく。会場が混乱に呑み込まれるのは早かった。
「うぁ・・・・・・っ!」
ずぶ、とシヴァの体から刀身が引き抜かれる。それは紛れもなく【死神】だった。血まみれの刃を翻してルシファーが笑う。
避けきれなかったエアリィの胴が二つに裂けた。鮮血と臓物を撒き散らして地に崩れ落ちる。
思わず剣を抜こうとしたオニクスは、空を掴んだ指に状況の圧倒的不利を悟って舌打ちした。ここは儀式場だ、武器の持ち込みは許されていない!
場内にいくつもの黒炎を放ち、ルシファーは駆けだした。
「待て!」
追おうとしたクロノス達の前に金糸が躍る。直後、そこに炎の壁が生まれた。
黄金の炎は円を描き、ルシファーとシヴァを閉じ込めた。
「・・・・・・何の用だ?陽令司。これしきのもので俺を捕らえられると思ったか」
シヴァは答えない。【死神】に刺された傷もそのままに、ただルシファーの前にいる。
そして確かな足取りでルシファーに近寄り、その襟元をぐいと掴んだ。
「冥府から逃げおおせたのが、お前だけだなどとは思うな」
告げた声はシヴァのものとは違っていた。真紅の瞳が射るようにルシファーを見据えている。
神にあるまじき、血の真紅。
ある可能性に気付き、ルシファーは戦慄した。まさか。そんなことは――・・・・・・!
「必要な条件は足りていないはずだ」
声が震えないよう気を付けながら、ルシファーは彼の言葉を否定した。シヴァの格好をした「誰か」は笑う。
「媒体か?そんなものは問題にならん。方法さえ知っていれば、・・・・・・」
ふいに彼の手から力が抜け、掴まれていた首元が解放された。
どさりと彼が地に倒れる。それと同時に炎の壁も消え去った。
「シヴァ!」
「待ちやがれルシファー!」
追ってきた十二神に舌打ちし、ルシファーはシヴァに背を向け駆けだした。
――地の果て、己の居城を目指して。

up date 05.03.12.



BACK      EXIT      NEXT


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送