二人がいるのは病院の屋上。 ごろりと寝そべり、穏やかな夕暮れ時の空を見上げながら彼は呟く。 「重力に逆らって飛べる、ってどんな感じなんだろうな」 彼の横に座る彼女は応じる。 「吐き気がするんじゃない?」 「・・・ロマンのかけらもないな」 【空風の唄】 彼の名を穂村 翔、彼女の名を藤堂 湊という。 高校陸上界のホープであった翔に湊が話しかけたのがきっかけで、時たま二人はこうして屋上で話をしていた。 翔は左膝に、湊は両手の指に、それぞれ包帯を巻いていた。 「第一、何で吐き気がするんだ?高所恐怖症なのか、お前」 呆れたように翔が問いかければ、湊はにやりと笑う。 「飛行機とロケットよ。どっちも離着陸の時は、気圧変化だの何だので、慣れてない人は吐き気がするって言うでしょ」 そのいささか科学的に過ぎる答えに、翔は軽くため息をついた。 「ホンットにロマンのかけらもないな・・・」 「悪かったわね、現実的で。――――――あんたがロマンチックすぎるんでしょ?人間である限り、あたしたちは飛べないわ」 翔は黙ったまま、答えない。 湊は淡々と続ける。 「諦めなさい、爆弾持ちのエースランナー。あんたは鳥じゃない」 ため息とともに吐き出されたその言葉に、否定的な響きはない。 だが翔にとっては、どんな刃物よりも痛い言葉だった。 「それでも俺は、夢を見た」 抵抗するように彼は言う。 「飛ぶ夢を見た。地に縛られずにいたいと願った。風の中にありたいと思った」 いつだったか誰かが言った。『お前には荒野が似合うよ』と。 その上に広がる真っ青な空が、何者の束縛も受けずそこにいる姿が良く似合う、と。 翔自身、それを望んでいた。けして束縛を受けることのない生活。 いかなるものにも阻まれることのない風と、その中をゆく鳥はその象徴。 「でも、もう駄目なんだ――――――・・・・・・」 少しでも自由を感じようと陸上を始めた。 走っている間だけ、彼は自由だった。彼の走りに及ぶ者はなく、周囲は彼を誉めそやした。 だが、そうしているうち膝が痛み出した。医者が下した判断は、『もう走るのをやめろ』。 そして彼は自由を失った。 希望が完全に潰えたわけではない。膝に抱えた爆弾を取り除くため、手術が行われる予定になっていた。それは三日後のこと。 それでも、『陸上生命は絶たれたに等しい』などと言われては。 「馬鹿」 泣きそうに顔をゆがめていた翔を、湊は無造作に小突いた。 「いくら自分を鳥に重ねて見たって、あんたの脚が治るわけじゃないのよ?」 「それでも」 「重ねずにはいられない、って?そんなこと言ったらあたしはどうなるの」 言って、彼女は己の掌に視線を落とした。 彼女が入院している原因は、十指の火傷。それを治すための手術が、幾度にも及んでいるためだった。 幸か不幸か、『生活に支障がない程度にまでなら治せる』と言われた。 しかし、彼女はピアニストだった。将来有望とされるほどの実力を持った、ピアニストだった。 自在に動く指を、その先にあったはずの未来を失ったピアニスト。湊が置かれた状況もまた、立場こそ違えど翔のそれと酷似していた。 「あたしは風に憧れた。木の梢を揺らす音、建物の間を吹きぬける音。そのどれにもあたしはかなわない」 湊が生み出そうとしたのは、聞く者全ての魂を開放するかのように自由な音色。 『もっともっと自由な音を』 その思いだけを糧に、彼女はピアノを弾き続けた。その点でも彼女は、翔とよく似ていた。 湊は立ち上がり、屋上の際まで行って手すりから身を乗り出して手を伸ばす。まるで風を掴もうとするかのように。 「あたしは大気に嫉妬した。際限なく風を、音を生み出せる大気に」 「・・・苦しくないか、それ」 「苦しかったわよ。人間にとって必要不可欠なものが一番憎たらしいんだもの。――――――でも」 でも、と湊は言う。くるりと身を返し、手すりの上に腰掛ける。 「あたしは風を見つけた。大気から生まれるんじゃない、人のカタチをした風」 「人の――――――・・・・・・?」 訝しげに呟く翔を見て、湊はふ、と微笑んだ。 「あんたのことよ」 翔は動きを止めた。 それを見て湊はさらに笑み、言葉を続けた。 「何ヶ月か前に、病院抜け出したことがあったの。あんたを見たのは、そん時」 偶然だった。たまたま学校の前を横切ったら、そのグラウンドを疾駆する翔の姿が目に飛び込んできた。 鮮やかに美しいフォームで、風のように駆け抜ける姿に目を奪われた。 見る者をことごとく惹きつける、人のカタチをとった風。 「だからあたしは、ここであんたを見た時、真っ先に声を掛けたの。風を掴まえたいと思ったから」 複雑な気分で、翔は湊の言葉を聞いていた。 何ヶ月か前――――――ということは、翔の脚が故障する直前のことだろう。まさか、練習風景を見られていたとは。 そして、他人からしたら、自分は風のように見えていたのか、とも思った。 風の中にいたい。そう思っていた自分が、風に見えたのか。 何とも言えない顔をした翔に、湊は言葉を投げかける。 「だから、あんたは立ち止まっちゃ駄目。あんたにはまだ可能性がある。また風になれる、って可能性が」 「それは!」 それは希望に過ぎない、そう言いかけて翔はふいに口をつぐんだ。 湊の目に、どうしようもない虚無の光を見つけたからである。 「あんたにはまだ、未来がある」 何も言えないままの翔を見つめ、湊は口を開く。 「あんたにはまだ未来がある。これから手術を受けて必死でリハビリすれば、また元通り走れるようになるかもしれない」 ゆっくりと、空の橙が濃くなっていく。 徐々に熱い色が大気に満ちていくその中で、翔には湊が誰か知らない者のように見えた。 「でも、あたしは駄目なの」 どこか深い虚無を帯びた声で、湊は泣き笑いのような顔をした。 その頬に涙が伝う。 「あたしの指はもう駄目なの。先生がそう言ってるの、聞いちゃった。もう前みたいにピアノは弾けないって」 見る見るうちに、彼女の頬に涙の筋が増えていく。一筋、また一筋。 「だからね、あなたは諦めちゃ駄目。あたしの代わりに風を生み出して」 「待てよ湊。お前の代わり、って・・・まさかお前」 泣きながら微笑む湊に何か不吉なものを感じ、翔は立ち上がった。彼女を捕らえようと手を伸ばす。 橙に染まった空を背景に、湊は笑った。そのまま後ろに身を倒す。 「じゃあね、翔。――――――さよなら」 そして彼女は宙に舞った。 伸ばした手は間に合わず、何も掴む事はできなかった。 翔が手すりにすがりついた時にはもう遅く。――――――何かがコンクリートの地面に叩きつけられる、鈍い音がした。 急いで下を覗き見る。 「・・・うそ、だろ・・・」 思わず翔は呟いた。 そこにあったのは絶望。 彼女の服が肌が地面があんなに赤く染まっているのは、夕日のせいだけではない。 その証拠に、その真紅はだんだんと広がっていた。 もう助かりはしないだろう。あんな、ひしゃげた体では。 先程まで翔と話していた湊は、すでに「湊」ではなかった。それは単なる肉塊だった。 いのちなどすでにない、ただの塊。 へたへたとくずおれるように、翔は膝を折った。 そのまま天を仰ぎ見れば、橙も絶頂の空が視界いっぱいに広がる。 まるで、湊が流した血のように赤い。 「ん、で・・・こんな・・・」 呟きは声にならなかった。 涙が溢れて止まらない。 なんでこんなことになってしまったのだろう? いつから彼女は絶望していたのだろう。 そしてなぜ、自分はそれに気づいてやれなかった。なぜ、そこまで絶望していた彼女に弱音を吐くような真似をした。 後悔だけが頭を巡る。 彼女が最後に聞いた風の音は、美しかっただろうか。それとも、それを感じる暇すらなかっただろうか。 ふいにずきりと痛みが走った。――――――――――彼の膝に。 「・・・こんな時に・・・・・・っ!」 翔は呻いた。この足は、悲しむ暇さえ与えてはくれないのか。 ずきずきと痛みが増していく。 翔は痛む足を抱え、その膝に拳を叩きつけた。何度も何度も何度も。 湊の痛みはこんなものではなかっただろう。この壊れた膝を千回殴りつけたところで、彼女の痛みには到底及ばない。 どうして湊は、こんなガラクタに望みを託したのだ。また走れる日が来るとは限らないのに。 そこまで思って、翔は気付いてしまった。 そうだった。また、走れる日が来るとは限らないのだ。 彼女は「諦めるな」と言った。けれど、この膝でまた走れる日は来るのだろうか? 風の中をゆける日は、再び訪れるのだろうか。 ふ、と翔の中に氷が生まれた。 恐ろしい勢いでそれは増し、翔の心を凍らせていく。 何もかも、もうどうでもいい。そんな思いに埋め尽くされた。 膝の痛みすら、どうでもよくなった。 ああそうか、と翔は思った。 これが、湊の感じた虚無なのか。 何もかも、希望や未来すらも捨て去った者の、虚無。 「・・・湊」 もういない湊に向けて、翔は呟く。 その声はやはり、どこか深い虚無を帯びていた。湊と同じように。 「ごめんな。・・・お前の遺言、守れそうにない」 それだけが、翔にとって唯一の心残りだった。 けれど、走らずとも風を生み出すことはできる。たった一度きりならば。 人は重力に逆らっては飛べずとも、・・・・・・・・・・・重力に従ってなら飛べるのだ。 彼は立ち上がり、手すりに腰をおろした。湊がそうしたように。 落ちるか落ちないかというぎりぎりのところまでのけぞって空を見上げる。 その視界には、昇る夕日と赤い空。まるで血のように赤い。 目を閉じ、吹く風を感じた。湊が憧れたモノ。 今から翔は、それを生む。この体をもって、――――――――命と引き換えに。 「俺も逝くよ、湊」 そして翔は身を倒し、宙に身を躍らせた。 耳元で風がうたう。 それはとても美しい、自由な音だった。 満足げに翔は笑った。 「湊。おまえに、これを。」 ――――――――――――――――――何かが地面に叩きつけられる鈍い音が、した。 終 部誌の原稿第一弾、ブラックバージョンです。 前半は殆ど同じで後半だけ違う、という何だか詐欺っぽい仕上がり(ぇ 実は背景の写真も、同じものをいじくり倒し色変えしまくって使ってます。 あまり血っぽくならなかったのですが、こうやって使えば禍々しい、か?(聞くな) 「血のように赤い空」って実際はなかなかお目にかかれるもんじゃないですよね。 その辺はやはり、見る側の精神状態に左右されるんでしょうか。 あー・・・ up date 04.06.13. |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||