時は玄宗皇帝の御世、唐の時代。
罪を犯した己を嫌悪し、生を諦めていた者がいた。
英雄の孫と言われ、苦しむ者がいた。
書物の世界に溺れ、外界を知らぬ者がいた。
己の心を失い、全てに怯える者がいた。


――――――これは、そんな者達の紡ぎ出した物語である。




【東勇記】




大唐国のある寺で、一人の若い尼僧が書斎にこもって書き物をしていた。
彼女の名は梁祥姫(りょうしょうき)、法名は幻浄。かの有名な玄奘三蔵の弟子として仏門に入り、その優秀さ故に異例の若さで経・律・ 論に通ずる高僧にのみ与えられる「三蔵」の称号を下されていた。
それだけでも十分に羨望と嫉妬の的になるであろう。だがもっと悪い事に彼女は女性であり剃髪(ていはつ)しておらず、しかも美しいと形容するに 足る秀麗な容姿をしていた。
彼女は顔の左半分に包帯を巻いていたが、そんなものは何にもならなかった。
この国では、幻浄のような金緑の髪や翡翠の瞳は珍しい。だから人目を引き、興味の対象にされるのだというのは分かっているが、我慢に も限界というものがある。
今彼女がここにいるのも、他の僧達から色欲にまみれた視線を浴びせられるのに飽いたからであった。
色欲を抑えがたいがために衆道に走ってしまうような連中だ。それに混じって修行を続ける尼僧が欲望の対象とされるのは当然のことだ ろう。――――――だが。
(・・・・・・仏門というのは、男女を問わず万人に開かれているべきではないのか)
これである。万人に開かれているべき仏門で、女性が修行を積むのは難しいなどというのはおかしいではないか。
それが幻浄の考え方であったが、人嫌いと生来の無口とがあるため、その考えを師である玄奘三蔵以外の者に述べた事は無かった。
いったん筆を置き、痛み出した頭に手を当てて深いため息をつく。
(疲れた)
そういえば、この書斎にこもってからどれだけの時間が経っているのだろう。そう思って彼女は窓の外に視線を転じた。
夕闇とまではいかないまでも、もう空は橙を帯びてきている。思ったより長い時間を過ごしてしまったらしい。
(まずいな。没頭しすぎた)
つい先日もそれで夜中まで過ごし、飯炊きの小僧に小言を言われたばかりだ。急がなくてはならない。
手早く硯箱を片付け、墨が乾いているのを確認して巻物もしまう。そうして書斎を出ようと立ち上がった時、俄かに外が騒がしくなった。
それは喧嘩が起きた時に似た緊迫したものだった。騒乱の波紋は徐々に広がり、この寺院にも及ぶ。
静謐に満ちた僧院には似つかわしくない、騒がしい足音が響く。それも単数ではない。
「三蔵様!・・・・・・・・・・・・―――――――妖怪が街に!」
書斎の戸を乱暴に開け放った僧が叫ぶ。ずるずると戸にすがって膝を折る彼を助け起こしてその背を見れば、妖怪の爪跡とおぼしき三本の 傷から血が流れ出て、僧衣を赤く染めていた。
「三蔵、様・・・・・・早く、早く街を・・・・・・・・・・・・!」
その切実な声に押され、幻浄は書斎を出て廊下を駆けた。途中すれ違った別の僧に、先程の僧を介抱するよう指示する。
普段は何とも思わない廊下がやけに長い。
勢いよく廊下の角を曲がり、玄関を駆け抜ける。
「三蔵様、今外出なさっては・・・・・・!」
「何を言っている、こういう時のために私達がいるのだろう!」
幻浄は裸足のままだったが、足の痛みなど気にしている場合ではない。そのまま寺院の門を駆け抜けて街に出る。
悲鳴、次いで血の臭気。人にあらざる者の啼き声。
バサァッ、と羽音がした。橙の空に幾つもの黒い影が舞う。
「・・・・・・妖鳥!」
舌打ちしたい気持ちで幻浄は吐き捨てた。
僧たちが三蔵を呼んだ理由はこれだったのだ。相手が空中にいるのでは、刀はおろか矢を当てることすら難しい。それが普通の鳥ではなく 知能を持った妖鳥だというのならなおさらだ。
―――――ならば、経をもってこれに臨め。
経とて万能ではない。幻浄はそう知っていたが、今はそれを信じるしかない。
首にかけていた数珠を取り、目を閉じて精神を集中する。低く経を唱え、妖鳥を穿てと強く念ずる。
妖怪の格でいえば、妖鳥は中の上。―――「三蔵」の称号を持つ彼女にとって、しとめるのはそう難しくない。
そのはずだった。
「危ない、三蔵様!!」
街の誰かが叫んだ。その声に振り返った時にはもう遅い。すぐ近くで羽音がする。
背後から迫ってきていた妖鳥の爪が目前にあった。
「っ!」
かろうじて身をひねって直撃はかわしたものの、その顔に巻かれた包帯が妖鳥の爪に切られ、はらりとほどけ落ちる。
包帯の裏には、細かい字でびっしりと呪文が書き込まれていた。まるで、何かを封じ込めるような。
しかしそれを目にした者はいなかった。包帯の裏などよりも、もっと目を惹きつけたのは幻浄の瞳。
包帯で隠されていたその左目は、人にあるまじき真紅の瞳をしていた。
泣き出す寸前のように幻浄の顔が歪む。
何かから身を守るように彼女は己を掻き抱いた。
瞬間、白熱した光が弾けた。
周囲にいた者が何かを考える間もなく、すさまじい熱波が全てを呑み込む。
瞬時に音もなく、何もかもが灰燼と化した。
炎が燃え立つまでもなく、全てが灼け尽きる。
当事者達は何が起きたかも分からないままであっただろう。恐怖も痛みもないまま、文字通り『灼け尽きた』のだから。
建物が崩れる音の一つもすれば、少しは恐怖を感じたかもしれない。だがそれすらもなかった。
そこにあったはずの街は消え、後には灰の山のみが残された。

――――――そう、幻浄三蔵、彼女一人を除く全てが灼け尽きたのだ。



***




「そうしておぬしは、かつて街であったはずの荒野に倒れ伏しておるところを、たまたま愛弟子の元を訪ねてきたわしに見つけられた・・・・・・ というわけか」
長安、大慈恩寺の一室。
目の前に座する老人の言葉に、幻浄は声もなく平伏した。
この老人―――幻浄の師たる玄奘三蔵は、若い頃に観世音菩薩から賜ったという仙酒と仙桃のおかげで、取経の旅から百年を経てもなお、 街の若者と何ら変わらぬ精力を全身に湛えている。
幻浄は、この外見だけなら五十歳と言っても通用するであろう老人に対してのみ、敬愛と畏怖の念を露にした。それは傍から見れば猛獣と 猛獣使いにも似た関係であったが、本人達はいたって真面目だった。
「どうか、この身にふさわしい罰を」
幻浄の言葉に、玄奘は無言で首を横に振った。もっとも、平伏している幻浄には見えなかったが。
「顔を上げなさい、幻浄」
玄奘の静かな声が幻浄の背に降る。彼女はわずかに身を固くした。
その声に応えられずにいると、再び玄奘の声が降った。
「顔を上げなさい。わしも、もっと早くおぬしに伝えておれば良かったのだ」
「・・・・・・?」
いつもの師父にあらざる様子に違和感を覚え、幻浄は恐る恐る顔を上げた。
「おぬしの顔に巻かれたその包帯の下に何が隠されておるのか、もっと早くに伝えておくべきであった。そうすれば対処できたかも知れぬものを」
「―――――師父」
ひた、と玄奘を見据え、幻浄は口を開いた。
「貴方は、私があのようなことをする危険を持っていたのだと、知っておられたのですか」
「・・・・・・ああ」
玄奘は頷いた。
幻浄は言葉を続ける。
「私は幼い時より貴方に育てて頂き、貴方に物を教わり、法を教わりました。・・・・・・しかし貴方は、この包帯を巻く理由だけは教えて下さ らなかった。ただ『決して取ってはいけない』と仰ったのみ。そして偶然とはいえ包帯を取ってしまった先日の、あの・・・・・・事件」
ふいと視線を外し、幻浄は血を吐くような声で問うた。
「私は・・・・・・一体何なのです、師父!」
玄奘は目を閉じ、まるで死刑を宣告するかのような重苦しい声で、ただ一言だけ告げた。
「龍だ」
決して大きい声ではなかったが、師がそう言うのを幻浄の耳はしっかりととらえた。
幻浄は自分の耳を疑った。
―――――龍?
「・・・・・・それは・・・・・・まことなのですか」
他に何と言えただろう。幻浄には、他に言うべき言葉が見つからなかった。
龍といえば、この大唐国では神として扱われている聖獣、天子の象徴にすらなっている獣ではないか。
自分がそんなものだなどとは、到底信じられそうになかった。
しかし玄奘はそれに頷いた。
「まことだ」
幻浄は体中の力が抜けるのを感じた。自分が自分でないような感じがした。
玄奘は目を閉じ、淡々と語る。
「おぬしの真の名は、敖藍(ごうらん)。東海青龍王・敖広(ごうこう)の娘だ。なぜ人界に転生することとなったのかは分からんが・・・。おぬしのその真紅の瞳 は人ならぬものである証、すなわち龍であるという証。その瞳を封じておれば、龍の力が開放される事はないのだそうだ」
(・・・・・・そうか)
私は人間ではなかったのか、と幻浄はぼんやりした頭で思った。
だから他者と関わる事が好きでないのだろうか。だから周囲と違いすぎていたのだろうか。
だから、苦しまねばならないのだろう。
「これも、何らかの罰なのでしょう・・・・・・」
我知らず呟くと、玄奘の静かな、しかしきつい反論にあった。
「罪を犯さずして罰のみ与えられるなど、あろうはずもない。それに罪人は醜いものだ。心が容貌に表れる。悪しき事ばかり考えている者 は悪しき面構えになる。しかし、お前はそれほどまでに美しいではないか」
「美しくなどありません」
すぐさま幻浄は言い返した。
ちょっとした拍子に涙がこぼれてしまいそうだった。
「私は美しくなどありません。こんな・・・・・・こんな人殺しの顔が、美しいわけがないのです・・・・・・!」
「しかしそれは過失だ。己の意志で人を殺めたわけではなかろう」
「それでも私は美しくなどありません!人を憎み、世を疎む私など、・・・・・・醜い化け物の姿で十分だ・・・・・・」
涙が溢れた。
拭っても拭っても、とめどなく頬を伝い、流れ落ちてゆく。
―――小間物屋の夫婦は、つい先日子供が生まれたばかりだった。
通りの角に住む老爺は、幻浄が門前を通るたびに畑で採れた野菜をくれた。
いつも空き地で一人遊んでいた少女は鍛冶屋の娘で、熱気に満ちた父の工房に一度入ってみたいと目を輝かせていた。
茶屋の店主。立ち話が好きで、注文した料理を運ぶのが遅いといつもどやされていた。
そんな人々は、もういない。
幻浄が彼らを殺し去ったのだ。何の罪もない彼らを。
骨すら残さぬ劫火によって、彼らが存在した証を何一つ残さぬままに灼き尽くしてしまった。
彼らがそれを望んだわけでもないのに。
背負った罪の重さで潰れてしまいそうだった。
(・・・・・・まずいな)
幻浄の様子を見て、玄奘はため息をついた。
このままでは、幻浄の精神が参ってしまう。そうなる前に、どうにかしなくてはならない。
そう考えた玄奘は、ある一案を実行に移すことにした。
前々から考えていた事だが、なかなか実行に移す機会がなかった。
「幻浄よ」
呼びかけ、自身を落ち着かせようとするかのように一度深く呼吸する。
幻浄が涙に濡れた顔をおずおずと上げるのを確認し、玄奘はその『一案』を口にした。
「幻浄よ。・・・・・・東の地へ向かうがよい」
そのあまりにも唐突な言葉に、幻浄は狼狽したようだ。何から考えたらいいのか分からないような表情をしている。
「東は、おぬしの父たる東海青龍王殿が統べる場所だ。そちらへ向かえば、おぬしの何たるかが判るかも知れぬ。それにわしはかつて、 天竺へと向かう途中に、様々な国と、様々な人を目にした。そういったものを、おぬしも見てくるがよい。そこで得たものは、必ずや、 おぬしのためになるだろう」
幻浄はただ頷いた。
何もかも、もうどうでもいいという気分になっていた。
旅の途中で野垂れ死ぬのもいいだろう。そう思った。
「荷物をまとめるがいい。出立は、・・・・・・そうだな、明後日がよかろう。それまでに準備をしておけ」
玄奘の言葉に、幻浄は再び深く平伏した。
「・・・・・・分かりました」
それ以外、彼女に言える言葉はなかった。




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