三蔵出立が決まった翌日の長安。 その市街の一角に人だかりが見える。時折上がる歓声や人だかりの中心にいる者たちの動きからして、どうやら乱闘が起きているらしい。 野次馬たちの中心にいるのは真っ赤な髪をした長身の青年、それと酔っているらしい男が三人。 青年の耳は、己は人にあらざるものだと主張するかのように尖っており、彼が妖怪であると告げていた。 「っ・・・の野郎、ちょろちょろしやがって!」 「ばーか、てめぇらが遅いんだよ。それに、その程度の拳が当たるかってんだ!」 三対一の対決であるにも関わらず、一方的にやられているのはどう見ても酔漢たちのほうだった。 彼らは全力で飛び掛かっているのにも関わらず、対する青年のほうは完全にお遊びで相手しているのが見て取れた。 妖怪と人との膂力の差を考えたとしても、青年はずば抜けて強かった。 青年の鮮やかな攻撃が酔漢たちに当たるたび、野次馬が歓声を上げる。 「ちっ・・・お前がいくら強かろうが、斉天大聖(せいてんたいせい)殿には叶わんくせに!」 酔漢の一人が悔し紛れにそんな台詞を吐いた時、青年の表情が俄(にわ)かに一変した。 余裕の笑みが消え、代わりに恐ろしいほど鋭い視線が酔漢を見据えた。 「俺の前で、あのジジイの話題を出すんじゃねぇ」 酔漢たちが怯える間もなく、青年の足裏が顔面めがけて飛んできた。 あっという間に三人の男たちは蹴り倒され、野次馬たちがうるさいほどに歓声をあげる。 「ったくよぉ。この程度の腕前で俺に喧嘩売るんじゃねぇよ」 心底不快そうに呟き、青年は服についた埃を払った。 そこに、一人の僧がやってきた。 人垣を掻き分け、青年の元へと向かう。 「孫天覚(そんてんかく)殿、ですね」 質問というより確認の意を込めて僧は言った。 青年―――天覚が頷くと、僧は深々と礼をする。 「玄奘三蔵様が貴殿をお呼びです」 「あのジジイがか?」 天覚はあからさまに嫌そうな顔をした。 『三蔵』と聞けば、この大唐国では誰もが敬意をあらわにするだろう。それをこの青年がしなかったのは、ひとえに昔から玄奘を知って いたためである。 直接会った事はないが、話は彼の祖父から何度も聞いていた。 天覚の祖父の名は、斉天大聖孫悟空。玄奘三蔵の従者として名高い大妖怪である。 天覚はそんな祖父と比べられるのを非常に嫌がり、その類の事を口にする者がいたなら片っ端からぶちのめしていた。 先程の酔漢たちが、そのいい例である。 「で、理由は何だ?」 嫌そうな顔のまま、天覚は僧に問うた。 聞かれた僧のほうは困った顔をしている。 「さぁ・・・私はただ、連れて来いと命じられただけですので」 それを聞いて天覚はため息をついた。 「ってこたぁ、直接会って訊くしかねぇってことか」 ひとりごちて、彼は野次馬を押しのけて円陣の外に出た。慌てて僧も後を追う。 「場所は」 歩みを止めることなく僧に問う。 「あ・・・大慈恩寺です」 それなら近ぇな、と口の中で呟き、天覚は不意に駆け出した。 僧が驚いている間に天覚はみるみる加速していき、あっという間に見えなくなった。 その、人にあらざる速さ。 天覚もまた妖怪である、ということの証のようだった。 誰ともなく、言うのが聞こえた。 「韋駄天のようだ・・・」 後には野次馬と、呆然とした僧だけが残された。 ここは玄奘自ら工事に参加したという由緒ある塔で、中には玄奘が天竺より持ち帰ってきた膨大な量の経典や仏像、その他にも貴重な 書物などが保管されている。 その一室で、一人の青年が寝食を忘れて読書に没頭していた。 見かねた飯炊きの小僧が膳を運んできたようだが、それも昨日より前のことだろう。食べかけの飯や菜の表面が乾いていた。――――― 食事の途中でまた書物の世界に入っていってしまったのであろう事は、容易に想像がつく。 青年の名は秋醒清(しゅうせいしん)。日がな一日書庫に閉じこもっているため、大慈恩寺の僧たちは彼を『土竜(もぐら)』とあだ名していた。 つまり、そうあだ名されるほど書庫に閉じこもりっきりなのである。 彼は僧ではないが、読書するだけで特に邪魔になるわけでもない、ということで書庫に立ち入る事を黙認されていた。 玄奘ゆかりの寺だけあって、ここはなかなか寛容である。 と、一人の僧が書庫へと入ってきた。 「醒清殿」 一拍置いてから、醒清は僧が肩を叩いたのに反応した。 「・・・あぁ、何か御用ですか?」 振り向いた醒清の目は、まだどこかぼんやりとしている。 現実の世界と書物の世界の境界線がはっきりしていないのだろうか。 僧は呆れたようにため息をつき、書庫の入り口を指し示した。 「玄奘三蔵様が貴方をお呼びだそうです。・・・もっとも、それより食事と入浴が先でしょうが」 「・・・玄奘さんが?」 彼もまた天覚と同じく、玄奘の名に敬称を付けることなく呼んだ。 理由も、天覚と同じ。 姓こそ違えど、醒清は沙悟浄の孫なのだ。 悟浄の子は娘であり、秋氏に嫁いだ。故にその子である醒清は沙姓でなく秋姓なのである。 妖怪と知っていながら書庫への立ち入りを黙認しているとは、ここは本当に寛容である。 「まだ、この本を読み終わってないんだけどなぁ・・・」 醒清は困ったように頭を掻いた。肩に本に、フケが落ちる。 それを見て再び僧はため息をついた。 「醒清殿。・・・本を読むのは後でもできますから、早く入浴してきてください」 心の底から頼むような声だった。 そこには、窓枠に腰掛け、外をじっと見ている一人の少年がいた。 彼の視線の先には、物凄い勢いで境内を駆け抜けてゆく天覚の姿があった。 羨ましさと、わず僅かな哀しみを含んだ視線で、少年は天覚の姿を追っていた。 「どうした、明律」 明律(めいりつ)と呼ばれた少年は振り返り、背後に立っている老人―――玄奘を肩越しに見やった。 「玄奘のおっちゃん?どないしたんや」 それを聞いて玄奘は苦笑した。 「こらこら。・・・誤魔化すでない」 明律はぐっと詰まり、拗ねたように口をへの字に曲げて視線を窓の外に戻した。 「何でもあらへんよ。ただ、えっらい勢いで走っていきよった兄ちゃんがおったけえ、それ見とっただけや」 「あぁ・・・」 玄奘は遠くを見るように目を細め、この少年の境遇を思った。 猪八戒の孫たる彼は、天覚や醒清とは同年代であるにも拘らず、十歳の少年にも劣るような弱々しい体つきをしていた。 つい先日まで、その足が己の体重を支える事すらままならなかったことを、玄奘は知っている。 彼にとって、外の世界がどれだけ遠いものだったのかも。 「で、おっちゃんは何しに来たんや?」 ふいに問われ、玄奘はここに来た理由を思い出した。 危うく忘れるところだった。 「おぬしを呼びにきたのだよ」 「おいらを・・・?」 明律は眉根を寄せ、くるりと反転して玄奘と向かい合うように座り直した。 「家に戻れっちゅう話なら、お断りやで!」 意志の強そうな瞳に確固とした光を浮かべ、明律は繰り返す。 「絶対、戻らへんからな」 「何を勘違いしておるかは知らんが・・・」 玄奘が再び苦笑した時、廊下のほうから騒々しい足音が聞こえてきた。 どうやら玄奘を探しているらしく、彼の名を怒鳴りながらこちらに向かってくるのがよく分かった。 「・・・おっちゃん?」 困惑したように明律が玄奘の顔を覗きこむと、玄奘は「心配するな」と言うように明律の頭を軽く叩いて、廊下に頭を出して闖入者 (ちんにゅうしゃ)の名を呼ばわった。 「おうい、天覚。どこを見ておる。わしはこっちだ」 言うなり玄奘は一歩下がったため、彼に殴りかかった天覚は均衡を崩して見事に滑った。 がごっ!と廊下の床に額を打ち付ける痛そうな音がして、明律は思わず首を竦める。 「てンめぇ・・・何しやがんだコラ」 「いきなり他人に殴りかかった奴に言われとうないわ」 初っ端から喧嘩腰の青年と妙に不敵な玄奘を前に、状況が理解できていない明律は対応に戸惑った。 強いて言うなら、青年が先程すりむいたらしい鼻の頭と額が痛そうで手当てしてやりたいと思ったが、今はそんな場合ではないだろう。 玄奘が来た理由の詳細を聞きたいとも思ったが、そんな場合でもなさそうだ。 明律がおろおろしている間に天覚と玄奘の間での話はまとまったらしく、玄奘は振り返って明律を手招きした。 ぽんと窓枠から降りて玄奘の元に向かうと、天覚は不審そうに眉根を寄せた。 「てめぇの隠し子か?玄奘」 「馬鹿を言うな。おぬしの仲間だ」 「仲間ぁ?」 疑わしげに声を上げたのは天覚だけだったが、明律も十分不審に思っていた。 どんな理由があって、玄奘は彼と明律とを「仲間」と呼んだのだろう? 二人の疑問を感じ取ったのか、玄奘は楽しげに笑った。 「それを話すために、おぬしらを呼んだのだ」 と、今度は天覚とはまるで違う、礼儀正しい呼び声が聞こえてきた。 玄奘は、その声の主が彼らの三人目の仲間―――秋醒清である事を知っている。 満足げに微笑んで、玄奘は天覚の時と同じように、廊下に頭を出して彼を呼んだ。 「おうい醒清。わしはこっちだ」 ややあって、いつになくさっぱりした格好の醒清が顔を覗かせる。 これで、役者が揃った。 |
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