とても静かな夜だった。 こんな夜には、どこか別の世界に来てしまったのではないかと考えたくなる。眠りについた街の中を、悠樹は一人散歩していた。 遅くまで賑やかな大通りすら、すでに人気は絶えて久しい。そこを折れて小道に入ると、やがて公園に行き当たる。 その隅に置かれた木製のベンチが、悠樹のお気に入りの場所だった。 どこからか月下香が香っている。付近の家が鉢植えにでもしているのだろう。その甘い匂いに季節を感じながら、 悠樹はベンチに腰を下ろした。ぎし、とベンチが軋む。傍らに盲人用の杖を置き、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。 やはり夜は良い。静かだからというのもあるが、何より人とぶつからぬよう気兼ねせずに済む。 先天性弱視というそれは、徐々に悠樹の視力を蝕んでいった。幼少の頃は僅かに見えていた光も、失われてから暫く経つ。 初めは家の中ですら歩き回るのに手間取ったが、杖を使って障害物を避けるのに慣れた今、散歩は趣味の一つになっている。 しかし慣れたとは言っても、やはり人通りの多い昼間は歩きにくい。自然、日が落ちて人通りが減ってから散歩するようになった。 盲目ということは別に不幸ではない。だが不自由だ。 ベンチの背もたれに体重を預け、悠樹は息を一つ吐いた。ラジオで今晩は晴れだと言っていたから、さぞかし美しい月が夜空に浮かんでいることだろう。 見えないそれを捉えようとするかのように、悠樹は目を細めて空を仰いだ。 本当に、静かな夜だ。 「お兄さん、ここで何をしているの?」 ふいに静寂を打ち破り、少女の声が悠樹に向かって投げかけられた。 「散歩さ。きみの方こそ、こんな時間に何をしているんだい」 「見守ってるの」 「見守って・・・?」 悠樹は鸚鵡返しに呟いた。声音や聞こえる高さからして、少女はまだ親の庇護が必要な歳のはず。そんな少女が夜遅く、 独りで何を見守っていると言うのだ? とす、と軽い振動が伝わってきた。悠樹の隣に少女が腰を下ろしたのだろう。少女は悠樹に問いかけてきた。 「お兄さんの名前は?」 「悠樹、――茅野悠樹」 「そう、悠樹さん。あなたは目が見えていないの?」 悠樹は一瞬言葉に詰まったが、それでも少女の問いに首肯した。そうなの、と少女は呟く。その声に同情の色はなかったが、 代わりに何故か納得するような響きを帯びていた。 「だから、ここに迷い込んでしまったのね・・・」 「え?」 「ここは人がいるべき世界じゃないの」 「・・・何を言っているんだい?」 悠樹は思わず、そう尋ねた。ここはただの公園だ。この子はよほど夢見がちな性格なのだろうか。それとも、こんな夜中に出歩いているのだ、 夢遊病の気でもあるのだろうか。 悠樹のそんな疑惑に気付いたのか、少女の声音が悲しみの色を纏った。 「疑っているのね、ここに来てしまったこと。・・・信じてもらえないのも当たり前なんでしょうけど。でも、ここは本当に、 人がいるべき場所じゃないのよ」 「じゃあ、ここは何と言う世界なんだい」 「テンガンキエン」 「てん、・・・何だって?」 「テンガンキエンよ。天の眼が帰る淵。――天眼帰淵」 「・・・不思議な名前だね。一体どんな世界なの?」 「照覧者の座する場所にして異界の終わり。昼もなく、夜もない。『果ての海』から昇ってくる『未来』を『記憶』に変えて、 それを雨として『果ての海』に還すの」 冗談で訊いたつもりが真面目に返され、逆に悠樹が戸惑うはめになってしまった。少女の声には迷いの欠片もなく、彼女にとって 『天眼帰淵』は疑いようもない存在なのだと示している。 これは本当に少女の妄想なのだろうか? 妄想にしては、少々詳しすぎやしないだろうか。 その戸惑いを押し隠し、悠樹は何とか声を捻り出した。 「・・・じゃあ、僕は何でそんなところに迷い込んでしまったんだろう」 「今は季節の境だから。境を越える時には、あちらとこちらが繋がってしまうことがあるの。あなたはきっと、季節の境を越えようとして、 こちらに迷い込んでしまったんだわ」 「境・・・」 半ば呆然と悠樹は呟く。それを否定的な意味に取ったのか、少女は呆れたように溜息を吐いた。 「悠樹さん。あなた、ここに来てから何か音を聞いた?」 「音?それくらい一つや二つは聞いて――・・・っ!」 気付いて悠樹は息を呑んだ。少女の言うとおりだ。この公園に来てから、何の音も聞いていない。大通りを車が通る音も、 あちこちに潜む虫の音も、自分達の体重で古びたベンチが軋む音すらも。 こんなことはあり得ないはずだ。悠樹は視覚を持たない代わり、その他の感覚器官がとても鋭い。なのに、自分と少女の声以外は全く何も聞こえない。 そう、少女が悠樹に話しかけてきた時も、少女は衣擦れの音や足音の一つも伴っていなかった。 「『天眼帰淵』にはね、何もないの」 ゆっくりと静かに、少女は言う。 「照覧者と、『果ての海』から来る『未来』があるだけ。『未来』は泡に詰まっていて、やがて弾けて雲になる。それ以外には何もないから、 何の音がすることもないの」 「・・・じゃあ、僕らが座っているこれは?」 「これはあなたが創りだしたの。あなたが『ここにはベンチがある』と思っていたから、ここにはベンチが現れた。あなたが帰れば、 これは消えるわ。これはそういうものだから」 迷いのない声。最後の抵抗も呆気なく打ち砕かれ、悠樹はようやく足掻くのをやめた。 深々と息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出す。 悠樹はようやく、少女の言葉を信じる気になった。ここは『天眼帰淵』という名の「異界」。自分は「招かれざる客人」で、 ここに座する少女は人ならざる者、即ち「照覧者」。 これまで道に迷う事は多々あったが、こんなところに迷い込んでしまったのは初めてだ。 悠樹の心を、ふ、と不安が掠めた。 ――果たして自分は、元の世界に戻ることができるのだろうか? 「どうすれば、戻れるんだい?」 怯えに任せて発した言葉は、おかしいくらいに震えていた。しかし少女はそれを嘲ることもなく、どこまでも真摯な声でこう答えた。 「本当は、異界を渡る者に案内して貰えるといいんだけど。こちらから彼らを呼ぶことはできないの。だから、秋の女王を呼びましょう」 途端、むせ返るような木犀の花の香りが悠樹の周囲に満たされた。幾重にも巻かれた香りのヴェールは、悠樹を捕らえて放さない。 滑るように移動していくそれに導かれ、悠樹はどこかに向かって歩き出した。その背に少女の声が飛んでくる。 「月下香には気を付けて。あの花の香りは人を惑わすから」 忠告してくれてありがとう。本当はそう言いたかったのだが、悠樹の口から飛び出た言葉は全く別のものだった。 「君の名前は?」 少女が笑んだような気がした。とん、と小さな手で背中が押され、耳元で少女が囁いた。 「――夢姫」 それが記憶の最後となった。 冷たい秋風に頬を撫でられ、悠樹はゆっくり目を開けた。どうやら休んでいるうち眠ってしまっていたらしい。 顔の前に手をかざしてみる。やはり何も見えない。あまりに鮮明な夢を見たせいか、ひとときの間だけ、失われた視力が戻っていたような気分だった。 (夢・・・) その一言で片付けてしまうには、あまりに惜しい光景だった。 大地すら存在しない、青い空だけが続く世界。どこまでも青いその中に、鮮やかに紅い着物を着た少女が一人立っている。 艶やかな黒髪を風に遊ばせて、少女はただ微笑んでいる。見守るように、柔らかに。 どこからか飛んでくるしゃぼん玉は透明な虹色、音もなく弾けては飛沫を散らして雲となる。その雲が降らせる雨は絹糸のように細やかで、 遥か足下に吸い込まれて消えていく。 美しすぎて、夢と呼ぶのも憚られる。 あの光景を何と呼べば良いのだろう。どんな秀麗な表現も、あれを表すには足りない気がする。それでもどこかに、 と頭を巡らす悠樹の脳裏に、一つの言葉が思い浮かんだ。 天の眼が帰る淵、――天眼帰淵。 それが他の何よりしっくりくる言葉だったので、悠樹はあの世界をそう呼ぶことにした。天眼帰淵。なかなか良い名前ではないか。 自分はきっと、この先もずっと天眼帰淵のことを忘れはしないだろう。何故だかそんな気がする。この夢のおかげで、何物にも代え難い縁を手に入れたような、そんな気が。 たかが夢。しかしそれでいいのだ。この想いは悠樹だけのもので、他の誰のものでもないのだから。 (・・・そろそろ帰ろうか) ようやく思い至って、悠樹はベンチから立ち上がった。傍らに置いてあった杖を手に取り、行く手に障害物がないかどうか確かめながら足を踏み出す。 静かな夜だ。虫の音と、悠樹の足音程度しか聞こえない。こんな夜には、どこか別の世界に来てしまったのではないかと考えたくなる。 ざ、と砂利を踏む音が途切れ、靴裏の感覚がアスファルトを踏む時のそれに変わった。公園から道路に出て、己の帰るべき場所を目指して歩いていく。 ゆっくりと、しかし確かな足取りで。 どこからか風に乗って、月下香の花の香りがした。 終 up date 04.10.30. |
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