「本当に、あれで良かったのですか?夢姫嬢」 確かめるように常磐は問うた。 傍らには緋色の振袖をまとった少女、天眼帰淵の新たな主が立っている。 「いいのよ。彼は記憶力が良いから、ああでもしないと忘れてくれない。それに、たとえ思い出したとしても、私が言った通りにしてくれれば、 まじないが彼を守ってくれるわ」 「風鈴のまじない・・・・・・ですか」 「そう。風鈴は魔除け。一旦こちらに惹かれてしまった魂が、またあちらに定着し直されるまで四十九日。その間ずっと吊るしておけば、 彼がこちらに惹かれることはもうないでしょう。――もう、二度と」 「では、その四十九日を一日少なく伝えたのは何故ですか」 「それは・・・・・・」 問われて夢姫は言いよどんだ。本来なら四十九日のところを四十八日と伝えた理由。それは。 「期待していたのでしょう?その残された一日の間で、彼が自分を思い出してくれるのを」 図星だった。――宗一なら、思い出してくれそうな気がしたのだ。 そんなこと、期待してはいけないのに。 「あちらへの思いは捨てなさい。そんなもの、あっても苦しいだけですよ」 言って常磐は歩き出す。 「私たちは、すでに異界の人間なんですから」 【CALLING】 りん、と涼しげな音がした。 縁側の軒先で風鈴が揺れている。季節は八月、暦の上ではすでに秋だが、暑気はまだまだ居座り続けるつもりらしい。 宗一は甚平の襟元をだらしなく開き、黄ばんだ畳の上でぐったりと寝転んでいた。うちわを動かす手も力ない。蝉の合唱だけがやたらと元気だ。 こうも暑いと、頭がおかしくなりそうだ。幻覚の一つや二つ、見えてきたとしてもおかしくない。 ――だから彼女は行ってしまったのだろうか。 そう思って宗一は心の中で歯噛みした。 彼の幼馴染である少女――梓は、七日前、立秋の日に失踪した。彼女は町随一の資産家の一人娘、それも祝言を来月に控えた身とあって、 町の者は総出で梓の行方を探し求めた。町と言っても村に毛の生えたような代物、娘の足ではそう遠くへは行けまい。 すぐに見つかるだろうとたかをくくっていたが、梓の姿形はおろか、足跡の一つすらも見つけられないまま今に至っている。 本当に、何もないのだ。 話によると、梓は嫁入り衣装を仕立ててもらい、それを着たまま失踪したのだそうだ。 金糸、銀糸で細やかな刺繍が施された、鮮やかな緋色の振袖だという。 にも関わらず、それを見たと言う者はいない。痕跡を全く残さずに。 神隠し―― 一部の老人たちは、すでにそう囁き交わしている。彼女にはよく似合っている、と宗一は半ば自虐的な気分で笑った。 梓にはどこか浮世離れした雰囲気があった。神にさらわれたとしても納得できる。 りぃん、と再び風鈴が鳴った。いつの間にかその音は増えている。上半身を起こして外を見やれば、 風鈴売りが宗一の家の前に屋台を停めて手拭いで汗を拭いていた。どうやら宗一の家の柏がつくる木陰で一息ついているらしい。 色とりどりの風鈴が揺れる。硬質でいて軽やかな音色が幾つも幾つも重なった。 うだるような暑さ。日影から見る外は眩しい日差しに満ち溢れ、地上へと容赦なく降り注いでいる。 緑の生垣、古びた焦げ茶の屋台の屋根に、無数の色彩が溢れる風鈴。 轟、と風が薙いで風鈴を一斉に鳴り響かせた。 ざぁぁぁぁあああああ 頭がおかしくなりそうなほどに音が溢れる。世界が揺らぐ。思わず宗一は目を閉じた。 ――不意に全ての音が消えた。 風がやんだのにしては、あまりに唐突過ぎる途切れ方だった。恐る恐る目を開ける。 風が吹く前と何ら変わらぬ静寂が、そこにはあった。うだるような暑さ、容赦ない日差し、縁側の軒先で揺れる風鈴。ただ一つ違うのは。 「――梓」 鮮やかに赤い振袖を着た娘が、宗一の目前に立っていた。 表情は逆光でよく見えない。が、どうやら微笑んでいるらしかった。 「梓」 すがるように名を呼び、手を伸ばす。白く柔らかな頬が指先に触れた。夢じゃない、幻じゃない。彼女はここにいる。 彼女の細い手が宗一の手に重ねられた。心なしかひんやりと冷たい。 つぼみのような唇が開き、懐かしい声が宗一の耳をくすぐった。 「あなたに会いに来たの」 聞きたいことはたくさんあった。 どうして出て行った?どうして何も言わずに?どこへ行ったんだ? けれど宗一の口から零れたのは、ごく短い疑問詞のみで。 「なぜ」 ――その先を続けることは、できなかった。 「これを返しに」 梓は振袖の袂から何かを取り出し、それを宗一に差し出した。 小さな手のひらに乗っているのは、いつか彼が梓に贈った、真紅の珊瑚の首飾り。 行商人から買った珊瑚の欠片を麻紐で括っただけで、とても立派とは言いがたい。けれども梓はそれを大切にしてくれていた。 宗一はそれを静かに受け取る。先ほどと同じく疑問が零れた。 「どうして」 「私は行かなきゃいけないの」 「どこへ」 「向こうへ」 彼女の言う『向こう』がどこなのか、宗一には皆目分からなかった。それでもなぜか、彼女の行く手を阻んではならないという思いだけが強い。 ずっと傍にいてほしいのに。 見透かしたように梓が笑う。どこか哀しげな笑みだった。 「私はもう、こっちにいてはいけないのよ」 なぜ、と問うことはできなかった。彼女の瞳がそれを拒否している。 訊ねても明確な答えが返ってこないことは分かりきっていた。 訊ねてしまえば、もう二度と彼女とは会えないであろうことも。 梓の頬に触れていた手が、はたりと力なく畳に落ちる。 「きみは来月、結婚すると聞いた」 「政略結婚よ。私はまだ、相手の御方と会ったことすらないんだもの」 「だから行ったのか?」 「違うわ。七日前がその時だったから」 「その――時」 「そう」 歯切れよく梓は肯定する。 「季節の境はあちらとこちらが入り混じる時。だから私はあちらに行った。――私はずっと呼ばれていたのよ。生まれるよりも前から、ずっと」 呼ばれていた、と間抜けのように宗一は繰り返した。とん、と梓は膝を折り、座ったままの宗一と目の高さを合わせる。 吸い込まれそうなほど瞳が青い。 以前は漆黒だったそれは今、彼女は異界の者だと主張しているかのように見えた。 「私はお父様の娘だけれど、それ以前に不破の人間だわ。不破はあちらとこちらの境で生きる一族。お父様はそれを忘れてしまったみたいね。 消えた娘を探すなんて無駄だってこと、不破の人間ならよく知っているはずなのに。――私はあちらに呼ばれた以上、こちらに留まっているわけにはいかない。いくら探しても見つかりっこないのよ」 「じゃあ――もう会えないのか」 「少なくとも、私があちらから出るのは、これが最初で最後だわ。あなたがあちらに来るというなら別だけど、できたらそうしてほしくない」 「なぜ!」 激しい口調で詰め寄れば、ひどく真剣な眼差しに射抜かれた。 「あなたは異界にいるべき人間ではないから」 青の視線に貫かれ、宗一は梓との決定的な断絶を悟った。 彼女はすでに彼岸の者。あちらに在ってこちらにいてはいけないモノ。 自分は未だに此岸の者。こちらに在ってあちらに行ってはいけない者。 こうして会っていることが、すでにありえないことなのだ。 凛、とひときわ甲高く風鈴が鳴った。 「――時間切れだわ」 梓は呟き、首飾りを握った宗一の手に軽く触れ、慈しむように微笑んだ。 「私は天眼帰淵の夢姫。あなたが知っている『梓』とはお別れよ」 「ゆめ・・・・・・き?」 「そう。名前はまじない、魂を此岸に繋く術。その楔を捨てたからには、私はもう異界の住人。――名前、呼んでくれてありがとう」 梓の――夢姫の腕が、宗一の首に回される。かすかに清冽な大気の匂いがした。 彼女が住む世界の匂い―― 「『異界に触れることは狂気の始まり』なんだそうよ」 夢姫が宗一の耳元で囁く。 「だから、忘れて」 異界の青が宗一を覗いた。身動きできない。――惹きつけられる。 晴れ上がった夏の空よりも、もっと青く澄んだ瞳。 ふわりと彼女の身体が離れる。耳元に一つ言葉を残して。 「あず――」 彼女の名を呼ぼうとしたその瞬間。 偉大なる何者かの掌が、宗一の頭に当てられた。 *** 溢れる音の余韻を残して、風はどこかへと抜けていった。 軒先で風鈴が揺れている。木陰で休んでいた風鈴売りは慌てて立ち上がり、ぶつかりあってひび割れてしまった風鈴がないか調べはじめた。 壮絶なまでの音の名残はすでにない。 強烈な日差しだけが変わらず、地上を眩しく貫いていた。 宗一は呆けたようにそれらを眺めた。どうやら一瞬、記憶が飛んでしまったらしい。 頭が暑さにやられてしまったのだろうか。 団扇で扇ごうと手を動かしかけたところで、自分の手の中にあるのが団扇ではないことに気が付いた。肝心の団扇は畳の上に置かれている。 こわばった五指をそっと開くと、見覚えのない、真紅の珊瑚の首飾りが転がった。珊瑚の欠片を麻紐で括っただけのもの。自分はいつの間にこんなものを握ったのだろう。 目の前に珊瑚をかざすと、とろりとした紅が夏の日差しに輝いた。 青だったら良かったのに。 意味もなくそんなことを考え、宗一は無造作にそれを首に掛けた。軽く弾みをつけて立ち上がると、軒先の風鈴が軽快に鳴った。 あと四十八日。 壁に掛かった日めくりカレンダーをぺらぺらとめくり、その日の日付を確かめた。九月三十日。それを心に刻みつける。 ――長いな。 何が、と疑問に思うこともなく、宗一は四十八日の間を過ごした。 日差しから烈しさが消え、秋の色は深々と濃くなり、風鈴を下げているのは宗一の家だけとなった。 カレンダーが示す日付は、九月三十日。――約束の期限だ。 宗一は風鈴を外そうと立ち上がった。 ――何の約束だ? 軒先に手を伸ばしたところで、不意にそんな思いが胸を掠めた。風鈴を下げておかねばならない期間は四十八日、 果たして何のために自分はそんな期間を定めたのだろう。 今日は約束の四十八日目。となると、約束を交わした日は四十八日前、八月の十四日ということか。 何が――あったのだろう。 とても大切な何かを忘れているような気がした。 風鈴を外しかけた自分の指先をじっと見つめる。 風鈴はまじない。魔を祓うもの。四十八日の間吊るしておけば―― ――吊るしておけば、何だというのだ。 自分は誰かにこのまじないを教わった。しかし、誰に? 秋の涼風が吹きぬけた。 凛、と軽やかに風鈴が鳴る。 凛凛、凛凛、 頭がおかしくなりそうな、 『風鈴を四十八日吊るしておいて。そうすれば、あなたは』 「――・・・・・・っ!」 思わず宗一は息を呑んだ。耳をくすぐる懐かしい声。これは。 全ての記憶は蘇った。 そうすれば、あなたはこちらに惹かれずに済む。彼女はそう言ったのだ。 どうして忘れていたのだろう。 鮮やかな緋色の振袖。艶やかな黒髪。吸い込まれそうなほど澄んだ青。 忘れていたのが不思議なくらいだ。あんな光景、そうそう忘れられるものではない。夢とも幻ともつかぬ、魂を呑まれそうな美しさ。 普段あれだけの正確さを誇っている記憶力も、肝心な時に使えないなら意味がない。 けれど今なら、彼女の台詞を全て正確に思い出せる。 名前はまじない、魂を此岸に繋ぐ術。 名を呼ぶことで彼女に会えるというのなら、何度だって呼んでやる。 たとえこれが、狂気の始まりであろうとも。 彼女を呼び戻すかのように、宗一はその名を静かに呼んだ。 「――――梓」 『CALLING』 完 up date 05.06.20 |
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