「・・・・・・飽きた」
書類の山に囲まれて頬杖をつき、シヴァはぼそりと呟いた。
溜めに溜めた書類は仕事机の半分近くを占領し、一向に減る気配を見せない。それどころか書類に目を通している間に追加されていく。 これ見よがしに溜息を吐くと、すかさず叱咤が飛んでくる。
「ここまで溜めるお前が悪い。最近火属の執務が滞っているのは誰のせいだと思っているんだ」
「うー」
「せめて祭祀関係の問題だけでも片付けてくれ。今年はお前が執行責任者なんだから、いくら会議で中身を決めても、 お前の許可がないと実行できないんだよ」
「・・・・・・俺ってえっらーい」
「立場だけはな。人格そのものは偉くも何ともないぞ馬鹿野郎。もっと尊敬できる上司になってくれ。ほら、次」
「へーい・・・・・・」
オニクスに渡された書類を半ば奪うようにして受け取り、文章にざっと目を通して捺印する。
「署名もだ」
乱暴に突き返すとあっさり戻され、印の左側を示された。溜息混じりに署名をする。
「これでいいんだろ」
「ああ。――どこに行く?」
「煙草吸ってくる」
「逃げるなよ」
あえてそれには答えず、ひらひらと手を振ってシヴァは執務室を後にした。後ろ手に扉を閉めてオニクスの目が届かなくなった途端、 一気に脱力する。
「・・・・・・勘弁してくれ」
ずるりと扉にもたれかかり、心の底から呟いた。
オニクスは「尊敬できる上司になってくれ」と言っていたが、シヴァとしてはあれでも努力していたほうなのだ。
確かに仕事は溜めるわしょっちゅう行方不明になるわで迷惑をかけている――自覚はある――が、 それでも重要な仕事だけはきちんと片付けている。思うに天界は余分な作業が多すぎるのだ。祭りの執行を任せるなどと言われても、 それが天界を動かす上で意味があるとは思えない。ただ儀式ばったことを淡々とやるだけで何も楽しくないのだから。
苦手なデスクワークで無意味と思っている問題に取り組んでいただけ、褒めてもらいたいくらいだ。
オニクスは良い部下だ。ただ、少しばかり融通が利かない。――彼に今以上のことを望むのも酷というものだろうが。
煙草に火をつけて肺腑いっぱいに吸い込むと、少しだけ気分が楽になった。
(・・・・・・寝室行こう)
がちがちに張った肩を揉み解しながら、ふうと煙を吐いて歩き出す。
執務室のすぐ横にある物置部屋のようなドアを開けると、そこがシヴァの寝室だ。というより、物置部屋を改造して寝室にしたのだが。
広すぎ、飾られすぎた本来の寝室より、ここや執務室の仮眠用ベッドのほうがよほど落ち着く。
シヴァは狭く薄暗い部屋の中、唯一淡い光を放っているもの――照覧鏡に歩み寄る。
天界を含む全ての世界を眺めることができるこの鏡は、以前アビスにもらったものだ。表面に指を滑らせ「人界のどこかを」 と強く念じれば、あらゆる場所がランダムに、流れるように映し出されていく。
それをじっと見ているうちに、だんだんと抱いてはいけない感情が湧き上がってきた。
まずい、と思いはしたものの、どうしても鏡から目を離せない。
――出かけたい。
単なる気晴らしが逆効果になってしまった。逃げるな、と言われたばかりでこれはまずい。
(そろそろやめねぇと)
そうやって目を逸らそうとした途端、見逃せないものが鏡に映る。今にもざわめきが聞こえてきそうな人々の群れ。灯火の下に集っている。
祭をやっているのだ。
お祭好きの血が騒ぐ。そこに祭があるのなら、見過ごすなんてとてもできない。
(〜〜〜〜〜〜・・・・・・ッ!)
そしてシヴァは、耐えがたい欲求のもとに屈服した。



「オニクス!」
執務室の扉が乱暴に開かれるのとともに、シヴァのよく通る声がオニクスの名を呼んだ。
もっと静かに開けられないのか。そう言おうとして顔を上げたオニクスは、シヴァの格好を見るなり動きを止める。
身に纏った濃緑色の布は腰のところで黄土色の帯によって結ばれ、サンダルに似た木製の履物を履いている。手には紙製・筒状の灯火。
「・・・・・・なんだその格好は」
「和服だ和服。知らねぇのか。日本って国の伝統衣装の一つ。こっちは下駄。んで、これは提灯。同じく日本の伝統的照明」
それはオニクスも知っている。しかし問題はそこではなく、さっきまでは彼のシンボルともいえる黒コートを着ていた彼が、 なぜ今はそんな格好をしているのか、ということだ。
嫌な予感がする。何かとても。
「まさかお前――」
「うん。悪いな。ちょっくら人界行ってくるわ」
にかっと笑って片手を上げ、オニクスが止めるより早くシヴァは駆け出した。
あんな不安定な履物でどうやって、と思うほどのスピードに、オニクスは思わず感嘆してしまった。そして、気付いた時にはもう遅く。
「あ、の・・・・・・大馬鹿者!せめて仕事を片付けてからにしろっ!」
そんな嘆きがシヴァの耳に届くことはなかった。


***



祭の会場はすぐに見つかった。
入り口とも言うべき小道の手前に『公孫稲荷神社』と刻まれた花崗岩の石柱が立っている。その文字を指で軽くなぞり、 鳥居の奥、石段の上にあるであろう本殿の辺りに視線を投げ、すうと目を細めた。
(――何かいるな)
祭の喧騒と濃密な人いきれに混じって、明らかに種類の異なる何かの気配が感じ取れる。だからこそここの場所が判ったともいえるのだが、人以外の者がいるとなると厄介だ。
悪いモノ、ではないと思う。かと言って良いモノだとも言い切れない。
何と言うか混沌とした――そう、複数のモノの気配がするのだ。
(・・・・・・勘弁してくれ、本当に)
がしがしと頭を掻き、溜息をつきたい気持ちでシヴァは提灯を地面に置いた。そして何もない場所から破魔矢を2本創りだす。
使う機会がなければいいのだが。
破魔矢を懐に忍ばせて提灯を手に取り、今さらながら先ほどの光景を見られていないかどうか、周囲を見回す。
――数歩離れたところに立っている、和服姿の若い女と目が合った。
少し後ろにはトラ柄の派手な作務衣を着た男も立っている。こちらはさほど気に留めた様子もないが、女のほうは呆然とシヴァの手元に視線を固定したままだ。
(・・・・・・やべ)
これは見られたな、と確信したシヴァはにっこりと笑ってみせた。話しかけるな気にするな、と無言の圧力を込めて。
彼女が気おされたところで目を逸らし、何事もなかったかのように歩き出す。これでまず大丈夫だろう。
(俺、こんなとこばっかスキル上がってんな)
あまり嬉しくない事実に気付いてしまい、自分で自分に呆れる思いがした。人を煙に巻くのがうまい神。我ながらうさんくさい神だと思う。
(まあ、どうでもいいんだけどさ)
少しは気にしろよ、というオニクスの溜息が聞こえてきそうなことを胸中で思い、心地良い祭の喧騒の中へと踏み込んだ。
邪魔な提灯は畳んで圧縮してから袂に、提げ棒は侍よろしく帯に差し、周囲の様子を窺ってみる。
右も左も見事なほどに和服の者でごった返している。露店の主たちも皆和服を着ているところを見ると、この祭には「和服で参加しなくてはならない」というルールがあるのかもしれない。
シヴァは単純に「日本の祭には和服」と決めているから和服を着てきただけなのだが、もし普段のコート姿で来ていたらひどく浮いていたことだろう。交往庁――天界の外交機関のようなものだ――の連中に「揉め事は起こすんじゃない」と常々言われているだけに、着替えてきてよかったと心底思った。
目立てば揉め事に巻き込まれる確率は増す。そんなことで叱られるのはごめんだったし、何より祭を楽しめない。
来たからには存分に楽しむ。そうでなければ祭に失礼というものだ。
(そんなわけでオニクス、悪いが今夜は遊びまくるぜ!)
声には出さずに宣言し、手始めにと傍にあった射的の店の軒をくぐる。
「へいらっしゃい」
「10回分頼む」
言いつつシヴァは懐から五千円札を抜いた。すぐに釣り銭を用意しようと屈んだ店主を手で押しとどめ、台の上に置かれた安っぽい銃を指で示す。
「釣りはいらねぇから、こいつに充填する役やってくれねぇか?」
「へえ、わかりやした」
彼もそういう注文には慣れていると見え、台の下からコルク栓が詰まった袋を取り出して、4つ並んだうち2つの銃口にコルクを充填し、一方をシヴァに手渡した。
300円10発×10回で3000円。
100発の弾を充填する対価が2000円というのは、おそらく高額の部類に入るのだろう。やたら上機嫌の店主にシヴァはそう思った。
あるいは自分の腕前が甘く見られているものか。
待っている間に吸い始めた煙草を咥えた口元を歪め、シヴァは銃を受け取って適当な景品を狙って撃った。
サイダーの栓を抜くような音がして、景品棚の後ろに張られた赤い幕が揺れる。店主がちらりと笑ったのをシヴァは見逃さなかった。
(やっぱり、な)
手加減しようと思っていたが、やめた。
軽く肩を竦めて無言で銃を差し出すと、何ともいえないにやにや笑いとともに銃を渡される。
だが、世の中そう甘くはないのだ。
先程と同じく無造作に構えて引き金を引く。キャラメルの箱がぱたりと倒れた。
2発目の弾はキャラクターものの人形を。
3発目の弾は黄色いアヒルのおもちゃを。
4発目の弾がビール券を倒したところで、店主の笑みが引きつった。
シヴァは棚の上段左から順に、的確に景品を倒していっている。ここにきてそれがまぐれ当たりではないと悟ったのだろう。
(当たり前だっつの)
シヴァが愛用している武器は銃なのだ。何世紀もの間、それを振り回して生きてきた。こんな至近距離の的に当てられないなど、恥以外の何物でもない。天界の軍事最高責任者という肩書きも泣いてしまうだろう。
もともと1発目を当てるつもりはなかった。あれはただ照準のズレを確かめるだけのものだったのだから。
「徹底的にいくぜ」
呟いた時の店主の顔は、ちょっとした見ものだった。



「・・・・・・ありがとうございやした・・・・・・っ!」
がっくりと頭を垂れて目頭を押さえる店主から、シヴァは景品が詰められた紙袋を3つ受け取った。
結局、100発全部使い果たすより早く、棚に並んだ景品を獲り終えてしまったのだった。補充用の景品はまだ残っているのだろうが、シヴァが「それも並べてくれ」と言い出す前に店主に泣きつかれた。――まあ、上客と思った男に商売あがったりにされたのでは、泣きたくもなるだろうが。
いつの間にか集まってきていた見物人の人垣を掻き分けていくと、ぼうっとシヴァを見ている少年と目が合った。
彼の腰ほどまでしかない背丈で、細い首をいっぱいに曲げて見上げている。黒々とした瞳には感嘆の色が窺えた。
「やる」
何となく景品の一つ――最初に撃ち落したキャラメル――を投げてやると、少年は驚いたようにそれを捕る。
その様子も見ずに歩き出したシヴァの背に、少年の声が飛んできた。
「ありがとう!」
言われたこっちが礼を言いたくなるようなすがすがしさに、思わずシヴァは振り返る。しかし少年の姿はすでに雑踏の中へと紛れ込んでしまっていて、再び見出すことはできそうにない。シヴァは軽く息を吐いた。
(・・・・・・あいつ、人じゃなかったのか)
形こそ未完成ではあったものの、あの声は間違えようもなく誘惑者のそれだった。――人をいざない、惑わすモノ。
恐らくあれは狐だろう。
悪いモノではなかったのが幸いだが、すぐに見抜けなかった自分が悔しい。苛立ちを紛らわそうと懐をまさぐって煙草を探した。だが射的をしている間に吸い尽くしてしまったのだと思い出して舌打ちする。
がさがさとかさばる紙袋がうっとうしくて、誰も見ていないのを確かめて天界に送る。もどかしい気持ちで辺りをぐるりと見回せば、「キセル」という看板が目に入った。
(・・・・・・祭で煙管?)
見間違いかとも思ったが、いくら瞬きしても目をこすっても、鮮やかな緑の地に黄で縁取られた文字が消え失せることはない。
少し迷ったものの、結局その出店の軒をくぐった。
「いらっしゃい」
易者じみた格好の、嗄れた声の老爺である。今度はすぐに感付いた。
――こいつもか。
思いはしたが顔には出さず、そ知らぬ態度で整然と並べられた煙管を眺める。いくつか見本がある以外は全て、細長い木箱に納まっていた。横には刻み煙草の包みも積まれている。
「手に取って見てもいいか」
「えェ、お好きなように」
手触りの良い白木の箱を取ってそっと開けると、美しい細工が施された化粧煙管が現れた。
「見事なもんだな」
感嘆してシヴァは呟いた。そうでしょうそうでしょう、と嬉しそうに翁が笑う。
「江戸でも知れた腕っこき、白羽兵衛の作に御座います」
しらはひょうえ、と胸の中で繰り返す。その名は確か、天界の妖名録に記載されていたはずだ。
『ひもす鳥のあやかしにて人の世に棲み、金物細工の技巧に秀で、人間としての生を貫き通し』――
「あんたはそいつの親戚か何かか?」
「まあ、そのようなものです」
「ほう――」
シヴァは開けっ放しだった木箱を閉じ、別の箱を手に取った。そちらには飾り気も何もない、ごく普通の煙管が納まっている。
「これを貰おう」
刻み煙草も取りつつ懐に手を差し込むと、いえいえと翁は手を振った。

「天照様からお金を取っているようでは、八咫烏の名が廃ります」

人の良さそうな笑みを浮かべたひもす鳥――鴉の化けた翁を見つめ、心外だ、とシヴァは零した。
「気付いていたのか」
「それはもう。あやかしと人との境をぼかす八紘一宇の結界も、貴方様の前には弱すぎます。私の正体も一目でお気付きになられたのでは御座いませんか」
それに――と楽しそうに老鴉は続ける。
「私の住処は蓬莱山に御座いますので」
「蓬莱?――あぁ」
――あの一族が住んでいる場所か。
それで全て合点がいった。シヴァはかつてそこを訪れ、堂々と名乗った上で乗り込んでいるのだ。八咫烏はそれを見聞きしていたのだろう。
「この祭、奴らが一枚噛んでるのか?」
「いえいえ」
主催者は別の方で御座います――と八咫烏は言った。
「此度の宴は縁日ですから」
縁日――神仏に縁のある日のことだ。それなら確かに、彼らとは直接の関わりはないのだろう。
何の縁日か訊こうとしたが、ここが稲荷神社であることに気付いてやめた。
稲荷神社での縁日なら、縁のあるものは一つしかない。
シヴァは行き交う人々の向こう、本殿があるであろう石段の上に目を向ける。主催者はあそこにいるのだろう。
――行くか。
「邪魔したな」
言って木箱と包みを袂にしまい、代わりに小さな巾着袋を取り出して八咫烏の前に置く。受け取れないといわれる前に踵を返して歩き出した。
少し行ったところで背後から小さな悲鳴が聞こえたが、シヴァは気にせず歩き続ける。
(あれなら邪魔にはならねぇと思うんだがな)
かしかしと頭を掻き、先程袂に放り込んだ木箱と包みを取り出して、火皿に刻み煙草を詰めた。
五百津御統(いおつのみすまる)、というのが八咫烏に贈った物の名だ。
赤瑪瑙の玉を無数に連ねた装身具であるそれは、邪念除けとして重宝する品だった。あやかしは人の感情に影響を受けやすいから、持っていて損はしないだろう。邪な人間が多い昨今は特に。
もちろんそれは煙管と刻み煙草を購入する対価としては高価に過ぎる。が、もとよりシヴァの頭にそんな考えはなかった。
(ああいう奴には長生きしてもらいてぇもんだ)
終わりなき円環と、血の結びを意味する赤い瑪瑙。守護を与える、という意味で贈ったのだが、果たして八咫烏は気づくかどうか。
もっとも、気付かれなかったところでシヴァが取る行動に変わりはない。彼が知らない場所で勝手に護るだけだ。
(神なんてそんなもんだからな)
煙管に火を点けて煙を吸い込み、肺腑を満たす。煙は江戸の味がした。
腕を組んで煙を吐き、かつ、と下駄を鳴らして足を止める。石畳と人波はそこで途切れ、無人の石段が上へと続いていた。
奇妙なことに、人の目にはこの石段が存在しないものとして映っているらしい。これも狐の仕業なのだろう。
石段に足を乗せる。と、境を踏み越える独特の気配がした。
(結界か)
後ろを振り返れば、変わらず祭を楽しんでいる人々がいる。しかしそちらとシヴァのいる側とでは、決定的に断絶しているのだ。その証拠に彼らはシヴァの存在に気付きもしない。
ここには祭の明かりすら届いていない。
夜の薄暗さがそのまま漂っている石段を見て、シヴァは袂から提灯を取り出した。火を灯して提げ棒に引っ掛け、提灯を提げていないほうの手を懐に入れる。指先に破魔矢の触れる感触があることを確かめた。
煙管の煙がうっすらと視界を遮るその向こう、石段の先に、あやかしのいる気配がある。
それに神経を集中させて、シヴァは石段を登っていった。八咫烏は何も言及していなかったが、万一相手が邪念に呑まれていた場合は、迷わず打ち滅ぼすつもりでいた。
からん――と音高に下駄が鳴る。石段は尽き、シヴァの目前には延々と連なる朱塗りの鳥居とそれを貫く石畳、古びてはいるものの手入れの行き届いた御社、イチョウの巨木、そして。

真っ白い着物を着たあやかしがいた。

見る者を不快にさせる瘴気の類は全くない。それはただそこにいるだけのようだった。
狐は誰かを待っているらしく、社の縁側に腰掛けて、足をぶらつかせて宙を見ている。そのまま視線を動かすことなく口を開く。
「その物騒なものを引っ込めてはくれぬか。できれば明かりも」
「明かりも?」
「ああ。今宵は良い星月夜なのでな」
軽く振り返って狐の見ている先を見やる。闇に目を慣らすまでもなく見える明るい星は、秋唯一の一等星フォーマルハウトだ。
その周囲に輝く二等星以下の星々も、秋の澄んだ大気を通して美しい光を投げかけている。
アンドロメダ、カシオペア、ペルセウス、ケフェウス。どれもくっきりして見えた。
「確かに、星見にはうってつけの夜空だな」
提灯の明かりを消して狐のほうへと向き直る。彼の手元に漆塗りの杯だけが置かれていることに気が付いた。
「星見酒か?」
「そのつもりだが、酒が来ぬ」
「誰かが持ってくる手筈になっているのか」
「ああ。ここの神木がな」
「神木?」
「それだ」
狐は社の横にどっしり構えたイチョウの巨木を示してみせた。
「公孫樹、か」
道理で妙な名の神社だと思った、とシヴァは肩を竦めて呟いた。公孫とは王侯の孫や貴人の血統のこと、それを神社の名にするなら首を傾げざるを得ないが、イチョウを示すのならば何の疑問もない。
「ってこたぁ、ここの主は」
「その男だ、本来ならば。今は仔細あって放浪生活をしておるのでな、私が代理を務めている」
「放浪生活ねぇ・・・・・・」
口に出してみるといかにもうさんくさい響きの言葉だ。シヴァは嫌そうに眉をしかめた。
その単語を背負って生きているような男を知っているから、余計にそう感じるだけなのかもしれないが。
もしもイチョウが常緑樹だったら、真っ先に彼を思い浮かべていたことだろう。
まさか、とシヴァの胸中に不愉快な仮定が浮かんだ。奴も「仔細あって放浪生活をしている」身だ。ひょっとすると両者はイコールなのかもしれない。
「そのイチョウ男はどういう奴なんだ?」
「白い服を着た阿呆だ」
何ともひどい言われようである。しかし「白い服」が燕尾服であるはずはないから、ここの主とあの男とは全く別の者なのだろう。そうと判ってシヴァは安堵し、シヴァは鳥居に寄りかかった。
「奴はな、あやかしの掟を破った身ゆえ、他のあやかしどもに追われておるのだ」
「ほう」
「人と契って子を成した。やめろと言っても聞き入れなんだ」
「お前は追わねぇのか?」
「数少のうなった友ゆえ、な」
寂しげに狐は笑った。獣があやかしに変わる理由は、長命によるものがほとんどだ。長く生きた分だけ喪うものも多かったのだろう。
神もまたあやかしの一種に過ぎない。そう考えているシヴァも、同じように多くのものを喪ってきた。
いつの間にか煙管の火は尽きていた。
刻み煙草を詰め直す気は起きなかったので、懐に入れっぱなしだった木箱にしまって戻す。めっきり冷えた秋の夜風がシヴァの赤い髪を揺らした。
祭の喧騒がやけに遠くさざめいて聞こえる。
「この祭、何のために開いているか訊いてもいいか」
「決まっておろう」
当然のことを、と言わんばかりに狐は笑う。

「我らの縁を繋ぐため――」

狐がそれを口にした途端、社を取り囲む木々が一斉にざわめき出した。思わず見上げる。狐が動じた様子はない。
「客だ」
するりと狐が立ち上がる。鳥居に切り取られた景色の先、石段を登ってくる足音がする。
新たな客もやはり着物を着ているのだろう、それは下駄の鳴る音だった。
「残念、紀一郎ではないようだ」
呟いて狐はシヴァとすれ違い、石畳に沿って歩いていく。ほう、と行く手に青白い炎が上がった。
狐火だ。
「御崎」
呼ぶ声に、豪の字か、と狐が応じる。
「照らすのが遅ェよ」
「すまぬな。客と話していたゆえに、つい気付くのが遅れてしまった」
「客?どこにいるんだ、そんな酔狂」
「うん?――」
狐は訝しげに振り返る。延々と続く赤い鳥居、ぽつねんと杯が置かれた社。

シヴァの姿は消えていた。


***



(あっぶねぇ・・・・・・!)
ぎりぎりのところで「客」の目から逃げおおせたシヴァは、寝室に駆け込んで心臓と呼吸を静めていた。
狐のことを呼んだあの声、気配。豪の字、という狐の台詞。
どれをとってもあの客は、霧島豪騎に違いなかった。
シヴァにとって彼は、どうにも苦手なタイプなのだ。オニクスといいクロノスといい、真面目くさった顔で人の頭を鷲掴みにするような連中は、天敵と呼んでも差し支えないかもしれない。
中でも豪騎は身分や立場というものとは無縁の場所を生きているからか、遠慮だの手加減だの、そういう考えを全く持たずに接してくるからたちが悪い。あのまま顔を合わせていたら、彼の息子たちと同じように扱われていたかもしれなかった。
(さすがに年4ケタ超えてる身で、ガキ扱いされんのはなぁ・・・・・・)
できれば勘弁願いたい。
何しろ相手はただの人間なのだ。なのに「ご苦労さん」だの「頑張れや」だの言われたのでは、いたたまれない気持ちになる。
(落ち込んでいる時には有効かもしれねぇけどさ)
考えて軽く溜息をついたところで、ドアがノックされる音がした。「へーい」と応えて入室を促すと、ドアが開いて薄暗い室内に光がもたらされた。オニクスだ。
「息抜きは終わったのか?この馬鹿上司」
「さっき帰って来たとこだ」
後半の悪罵について返す気力もなく、シヴァは素直にそう答えた。オニクスは一瞬毒気を抜かれたような顔をして、すぐに元のしかめ面に戻る。
「悪いものでも食ったのか」
「何も食ってな・・・・・・あぁっ!」
不意に声を上げたシヴァに、オニクスが「どうかしたのか」と訝しげな声を向ける。
「せっかくの祭だってのに、焼きそばもお好み焼きもりんご飴も食ってねえ・・・・・・!」
シヴァは悶絶し、がっくりと肩を落とした。祭の定番3種を食い逃がすなど、自分は何と惜しいことをしてしまったのだ。
「最初に食うべきはたこ焼きだろうが」
「あ?」
「何でもない」
「・・・・・・そうか」
何か呟いた声が聞こえた気がしたのだが、本人が何でもないと言うのなら構わないだろう。「それよりも」とシヴァはオニクスを振り返る。
「お前、文句言うためだけに来たのか?」
「まさか。文句だけなら仕事をしながらでも言えるからな」
「・・・・・・要するに仕事させに来たってわけか」
「そういうことだ。典礼庁から急ぎの書類が追加で来た」
「読み上げてくれ」
言ってシヴァはクローゼットに向かい、いつもの黒コートがあるのを確認して着物の帯を解きだした。ドアの横で書類を読み上げているオニクスは慣れたもので、ちらりと視線を寄越しただけで何も言わない。
完全に帯を解く直前で、懐に入れたものの重みを思い出して、入れっ放しだった物を取り出す。
財布と煙管、刻み煙草の包み。そして――2本の破魔矢。
それはあの時、御崎狐に向けようとしていたものだった。ほったらかしてたか、と今さらになって思い出す。
シヴァはそれを眺め、片方はがらくた箪笥の中に、もう片方はコートのポケットへとしまい込んだ。
忘れてはならない戒めとして。
「オニクス」
「何だ?」
「俺、仕事頑張るわ」
「・・・・・・・・・・・・は?」
動きを止めてしまったオニクスを尻目に、シヴァは手早く着物と襦袢を脱いでクローゼットにしまい、いつもの洋服姿に改める。回すようにしてコートを羽織ると、それだけで先刻までのお祭気分は消え失せた。
鉢巻を締めるようにバンダナを結び、コートのポケットに手を突っ込む。普段なら何と言うことのない仕草だが、指先に触れる破魔矢がシヴァの意識を引き締めた。
周囲にとってはただの祭に過ぎなくても、それを待つ者がいるのなら。
(俺に出来ることなんざ、仕事くらいしかねぇもんな)
ならばそれをやるだけだ。
神として、下界のものを護るべく在る者として。

「行くぞ、オニクス。――仕事だ」




finish date 05.10.10



BACK


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送