淀んだ空気を流すべく窓を開けると、風に乗ってどおん、どおんという音が聞こえてきた。
「太鼓の音・・・・・・?」
それまで机に突っ伏していた西邑が顔を上げ、窓の外に耳を澄ます。
「お祭りですかね」
「縁日だよ」
西邑の呟きに霧島が返す。
「公孫稲荷ってあるだろ。あそこで縁日やってるんだ」
「こうそんいなり?」
「聞いたことない名前ですね」
「まあ、目立つ所じゃねえからな。それでも、今日なら露店が出てるから分かりやすいだろう」
露店、と聞いて青木がぱっと目を輝かせた。
「出てるんですか、露店」
「ああ。わりと種類も多いし、行ってみたらどうだ」
「いいんですか!?」
「仕事が終わったらな」
打てば響くような返答に、青木は猛然と書類に向かいだした。
その様子を間近で見ていた三堂は呆れたように溜息をつく。
(単純な奴)
青木と三堂の年齢差は二つだけだが、三堂が老成しているのか青木が子供っぽいのか、こういう時は年の差がひどく大きく感じられる。
祭り一つでそこまで熱心になれるものなのか。
窓の外に視線を転じた三堂の内心を読んだかのように、霧島がぽつりと呟いた。
「幾つになっても楽しみなもんだよなあ、祭りってのは」
「え」
「課長って・・・・・・お祭り好きだったんですか」
「あの雰囲気がな。――要請が入ってなくて良かったよ。あの縁日にだけは行かねえと」
「そうなんですか?」
「ああ。毎年、あの縁日の夜には馴染みが集まるんでな」
「へえ・・・・・・」
霧島の顔馴染み。それは一体どんな人々なのだろう。
ふと興味が湧いて、訊いてみる。
「どんな方々なんですか」
「狐とウサギだ。運が良ければイチョウも来る」
「・・・・・・はあ」
それはきちんと人間なのですか。できることならそう訊いてみたかったが、否定された時のことを考えて諦めた。
人でないものと知り合いで、なおかつ親しげな様子の課長。容易に想像できるだけに恐ろしい。
「それ、僕らも行ったら会えますか?」
いつの間にか仕事の手を止めて話を聞いていたらしい青木に、にやりと笑って霧島は答える。
「ほおずきを見つけられたらな」
(ほおずき?)
それは何かの暗号だろうか。そんな三堂の思考は青木の台詞に吹き飛ばされる。

「へえ。じゃあ一緒に探してみましょうか、三堂さん」

――は?
ちょっと待て。なぜ彼の中ではすでに、自分が祭りに行くと確定しているのだ。
「おい・・・・・・」
訂正しようとした声は霧島に遮られた。
「そうだな。三堂なら鋭いし、見つけられるかもしれん」
視線を翻した先に霧島のささやかな笑みを見つけ、三堂はそれ以上の抵抗を諦める。
この男、楽しんでいる。
彼がこういう顔をしている時は、何を言っても無駄なのだ。三堂は経験的にそう知っていた。
逆らっても無駄だし、そんなことをする気力も起きない。
「ああ、行くなら和服を着ていったほうがいい。良いことがある」
「・・・・・・そうですか」
着ていけばいいんでしょう、と半ば自棄になって思い、こうなったら絶対にほおずきとやらを見つけてやると心に決めた。


***



霧島の言っていたとおり、公孫稲荷は大層目立たない神社だった。
まず、大通りから外れているという時点ですでに目立たない。人気のない道をさらに逸れ、少し行ったところにひっそりとある。
神社自体は道より一段高い場所にあるらしく、稲荷神社のシンボルである赤い鳥居や本殿は、梢と夜闇に遮られて窺い知れない。
夜目には目立つはずの露店の明かりですら、鬱蒼と茂る木立によって、ほぼ完全に人目から遠ざけられていた。
『公孫稲荷神社』と彫られた花崗岩の柱がなければ、絶対に気付けないような場所である。
(・・・・・・道理で気付かないわけだ)
ようやく見つけた目的地を眺め、三堂は妙に納得した。「目立たない」を通り越して意図的に隠されているとしか思えない。ここの木々は目隠しの役割を果たすために植えられているようにさえ思える。
縁日自体もさして規模の大きなものではないため、何度も道を行き来する羽目になってしまった。
霧島が言っていたことを思い出して、和服姿の人を探したのが良かった。そうでなければまだ迷っていたかもしれない。
約束の時間に間に合ってよかった。
しかしまだ周囲に青木の姿が見えないところからすると、彼も迷っているのだろうか。
暇を持て余した三堂は、ただ露店のほうを眺めていた。
(しかし、本当に皆和服を着ているんだな)
ひそやかにさざめく境内を見回すと、改めて実感する。
洋服と和服が五分五分どころではない。ほぼ十割が和服姿なのだ。着物に着流し、作務衣に袴。 そしてそれは客に限ったことではなく、露店の主たちも同様なのだった。
――徹底している。
いっそ帯刀している者がいないのが不思議なくらいで、今は本当に平成の世なのかと疑いたくなってしまう。
祭りの空間はいつだって非日常だが、ここはいっそうそれが強い。
かすかに目眩がした。
「――三堂さん?」
不意に名を呼ばれて振り返る。深緑のかすり地に麻の葉模様の着流しを着た男性。――青木。
三堂と目が合った途端、彼は大きな目をさらに大きく見開いた。
「・・・・・・すいません、人違いで」
「待て」
いそいそと立ち去りかけた青木の襟元を掴んで引き止める。
「お前は上司の顔も判別できないのか?」
「・・・・・・本当に三堂さんなんですか」
青木は三堂を上から下までまじまじと眺め、なぜか不安げな顔をした。
今の三堂は、普段のスーツ姿ではなく、紅葉を敷き詰めた柄の着物に、水流とイチョウを図案化した柄の黒い羽織といういでたちだ。 履物も革靴ではなく白足袋と下駄だし、普段は首の後ろで括っている髪も下ろしている。 雰囲気が違うのは当然のことだが、そこまで疑われると何だか情けない気分になる。
「私は間違いなく三堂だ。あんまりじろじろ見ているんじゃない」
溜息混じりにそう言うと、青木は慌てたように「え、あ、いや」と首を振った。
「着物、持ってたんだなあと思いまして」
「ああ、これか」
軽く顔をしかめて着物の裾をつまんでみせる。
「母が和服しか着ないんでな、私も和服派にしようとたまに送りつけてくるんだ。これは何年か前のものだから、今の私には色が若い」
だから羽織まで引っ張り出してきたんだよ、と肩を竦めて問い返す。
「そういうお前こそ、よく和服なんて持っていたじゃないか?」
「実家が京都で呉服屋やってるんです」
「ああ・・・・・・」
なるほどな、と三堂は思った。彼のおっとりした性格は、そこで育まれたものなのだろう。
東京生まれの東京育ち、生粋の江戸っ子である三堂には、その穏やかさが少しだけ羨ましく思えた。
「京都はいいところか?」
歩き出しながら訊ねると、元気のいい肯定の返事が返ってくる。
「いいところですよ、とても。最近は大きなホテルなんかが立っちゃってて雰囲気台無しのところもありますけど、 昔の街並みが残ってるところは本当に綺麗ですし。景色の綺麗さだったら、僕の中では沖縄と張りますね」
「なんで沖縄なんだ」
「高校の修学旅行で行ったんですよ。感動するくらい綺麗な景色でした。三堂さんはどこに行かれました?」
「私は北海道だった」
「・・・・・・同じじゃないどころか、正反対なんですね・・・・・・」
なぜか青木はしょんぼりと肩を落とした。修学旅行の行先が正反対だからといって、何だというのだろう。
対応に困った三堂はとりあえず出店のほうを指差した。
「・・・・・・まあ、何か食べて元気を出せ」
「はい・・・・・・」
そうして二人揃って周囲を見回して初めて、ようやくこの祭の異常さに気が付いた。
異常と言えば祭の参加者がほぼ全員和服というのもそう呼べるのかもしれないが、この場合は出店が普通ではないという意味だ。
普通、祭の出店といったらたこ焼き・射撃・わたあめ・金魚すくいなどのものを思い浮かべるところだが、 ここにある出店はそれらスタンダードなものに混じって、

『薬草』

『塩焼き』

『肉』

『青果』

など、かなりおかしな商品が揃っていた。後半の二つなど、どうしてわざわざ祭で売る必要があるのだろう。
祭だというのに「コーヒー」などと書かれた看板を掲げる店もあった。 しかもパラソルの下でアロハシャツのような柄の作務衣を着た男が店番をしている、かなりの怪しさを伴う店だ。
「――このお祭、少しおかしくないですか?」
「少しじゃないだろ、少しじゃ。普通の祭でコーヒーは売っていない」
「・・・・・・ですよね。さすが課長行きつけのお祭・・・・・・」
その言葉で全て納得できてしまうのも嫌だが、それ以外にこの状況を納得させ得る言葉は思いつかない。
あの曲者代表のような男が出入りする祭であれば、何があっても不思議ではないような気さえする。
そもそも祭という空間がすでに非日常なのだし――・・・・・・

「そこの御方、何かお悩みのようですね」

良く通る澄んだ女の声。それが自分たちに向けられたものだと気付いて振り返ると、そこには怪しい占い師が座っていた。
机に掛けられた布の手前部分には『あらゆる占い致します』と書かれており、それを証明するかのように、卓上には水晶球と筮竹が置かれている。
濃い紫の着物に黒い羽織、黒い薄布で口元を覆った格好の占い師は、全てを見透かすような目で二人を見ていた。
「・・・・・・ええと」
「ご相談、承りましょう」
疑う余地すら与えない、有無を言わさぬその言葉。
三堂は危ういところで踏みとどまったが、青木は完全に篭絡され、占い師の正面に座ってしまった。三堂が止める暇もなく「実は僕・・・・・・」などと話し始めている。
(――馬鹿が)
深々と溜息をついてくしゃりと髪をかき上げる。占いなどに頼ったところで、物事に変化が訪れるわけでもないだろうに。
「占いはきっかけにすぎない、とお考えになればよろしいのですよ」
「まあ、そうなんだが」
「それでも納得いかない理由がおありで?」
「いや、そういうわけでは――・・・・・・」
そこまで口にしたところで、三堂は話し相手の存在に気付いた。素早く顔を上げるとそこには、占い師に負けず劣らず怪しい雰囲気をした、托鉢僧のような格好をした男が立っている。
墨染の衣に朽葉色の袈裟、鈍い金色の錫杖と菅笠。男の顔は笠の影に隠れて見えない。
怪しすぎる。
言葉を失った三堂をよそに、男はしゃらん、と錫杖を鳴らした。
「諸行無常の世とはいえ、人のしがらみは切っても切っても切れぬもの。ましてや苦悩煩悩の類となれば、それを断った者は聖者と呼ばれ尊崇の対象ともなるほどに、凡百の身には断ちがたく――」
「あの」
「平素より流離したる拙僧とて、未だ六根清浄なる御方には出会ったためしがありませぬ。とはいえ世の人々がかくありたいと望んでおらぬわけではなく、ただ実現に至らぬだけで――」
「すみませんが」
「祭の空間は非日常。なれば普段はそうと言えぬ百八煩悩、相談なさるに良い機会かと愚考いたしまして、この常磐坊は馳せ参じさせて頂いた次第にございます。つきましては」
男はがたりとどこからか、立て看板のようなものを持ち出してきた。
『悪霊退散・厄除け・魔除け あらゆる御祓い致します』。
「貴女に纏わりついたその陰気、拙僧が祓って差し上げましょう」
「――結構です」
三堂はそれだけ言うので精一杯だった。何だろうこの男。青木とは違った意味で頭が痛い。
自分の周囲には奇人変人しか集まらないのだろうか。
「やはり何かお悩み事が」
「ご心配なく」
ぴしゃりとはねのけ、三堂は隣の青木を恨めしく見やった。彼は何をそんなに悩んでいたのか、占い師と熱心に話しこんでいるようだった。
(馬鹿が・・・・・・!)
青木がそこから動かない限り、三堂も不用意に動けない。この胡散臭いことこの上ない僧侶から逃げ出したいのは山々だが、これだけ混雑しているのでは、はぐれた中でまた出会える確率は低いだろう。
つまり、三堂は彼と頭の痛い会話を続けるしかないのだ。
(黙っていてもこいつは話し続けそうだしな)
帯の間に挟んである警察手帳の存在を頭に置きつつ、三堂は僧侶に警官らしい質問をした。
「あなたの身分をお聞かせ願えますか」
「人様に名乗れる身分ではございませんので」
「あなたの身分をお聞かせ願えますか」
「拙僧は名もなき乞食僧にて」
「あなたの身分をお聞かせ願えますか」
「・・・・・・常磐と申します」
きっちり同じ台詞を繰り返す三堂に根負けしたのか、僧侶――常磐は頭を下げて名を名乗った。笠を外した仕草だけを見るならば、ヨーロッパの紳士のようだ。
貴女も強情な方ですね、と笠を被り直して常磐がぼやいた。
「私はどうも、そういう方にばかり縁があるようです」
そう言って常磐は占い師のほうを振り返る仕草をした。知り合いなのだろうか。
「彼女の強情ぶりは、恐らく貴女と張るでしょうね」
「ほう――」
どうやら常磐の口調はこちらが地らしい。三堂は相槌を打って先を促す。
「彼女の父親も相当な強情ですが、そういうところばかり似てくるのですから、困ったものです」
「・・・・・・父親?」
その言葉を聞いた時、三堂は何となく不吉なものを感じた。強情な父親。それだけならば、わりとありふれたものだけれど。
「彼は警察官でして、少々特殊な部署に」
「それ以上言わないでください」
聞いたら疑惑は決定的なものになってしまうだろう。三堂は手のひらで常磐の口を塞いだ。
強情・父親・警察官・特殊な部署。この四つの単語から連想できる人物は、三堂の知る中では一人しかいない。
(課長は子持ちだと聞いてはいたが・・・・・・)
ひょっとすると自分の斜め前に座っている占い師は、霧島の娘かもしれないのだ。
上司の娘に自分の部下が悩み相談をしているだなんて、なんてシュールな状況だろう。
放して頂けませんかレディ、とくぐもった常磐の声がした。慌てて三堂は手のひらを離したが、僧侶がレディとは不釣合いにも程がある。
「お前も胡散臭い男だな」
つい敬語を使うのも忘れて素で零すと、常磐は心外だと言わんばかりに口元を曲げた。
「胡散臭いとは失礼な。これでも精一杯周囲に馴染もうとしているのです」
「その格好でか?」
「燕尾服で来るよりはましでしょう」
頷きたいのはやまやまだったが、胡散臭さという点では燕尾服も僧衣姿も大して変わらないような気がする。
「どっちにしろ客は寄り付かないと思うが」
「来ませんか」
「場所が悪いな。占い師の隣にお祓い師では、病院の隣に火葬場があるようなものだろう」
「なるほど、それは言い得て妙です」
なぜか嬉しそうに笑う常磐は、やはり何も考えていないように見えた。少なくとも売り上げを期待しているようには見えない。
道楽でやっているのだろうな、と三堂は見当をつけた。
「しかしせっかくの祭なのです、普段と違うことをしたくなるではありませんか」
「そうか?」
「そうです。例えば普段は着ない服を着るように。普段は出さない店を出すように。神社まで来たのに参拝しないように」
「参拝しない?」
まさか、と三堂は眉をひそめた。縁日に神社まで来たのなら、参拝くらいはするものだろう。
「しないのです」
にっと常磐は笑ってみせた。両手を広げて周囲を示す。
「嘘だと思うのであれば、本殿がどこにあるのか私に教えてくれませんか」
「何を言って――・・・・・・」
三堂はぐるりと辺りを見回し、それ以上何も言えなくなった。
ここに入る手前の道から見た時、本殿などは一段高いところにあるように見えた。ならば階段の類がかならずどこかにあるはずなのに、どこにもそれが見当たらない。それどころか、ここはただ木々に囲まれた小さな広場でしかないかのようだ。
呆気に取られて無為に瞬きを繰り返す三堂の顔を、常磐は愉快そうに眺めている。
「――祭の空間は非日常なのですよ」
意味ありげに常磐は笑い、表情を隠している笠を少しだけ持ち上げた。
そこから覗いた両の瞳は息を呑むほどに紅く――・・・・・・

「何やってるんですか三堂さんっ!」

不意に青木の怒声が飛び、三堂は常磐から強い力で引き離された。肩に小さな痛みが走る。青木の指が食い込んだのだ。
揺らいだ視界が安定した時、常磐の双眸はすでに元通り笠で隠されていた。
「何なんですかあなたは」
「はて、何のことやら」
「何をしていたんです」
「何もしてやいませんよ」
唸るように身構える青木から、常磐は飄々と追撃をかわす。
横では占い師が面白そうにこちらを見ていたが、三堂はそれに気付かない。
赤。深く、澄んで、誘い、捕らえ。

「三堂さんに手を出さないでください!」

こいつ、何でこんな大声を出しているんだろう。ぼんやりした頭で三堂はそんなことを考えた。
何で――?
その理由を考える間もなく、青木が三堂の手首をぐいと掴んだ。そのままずんずん歩いていく。霧島の娘かもしれない占い師と胡散臭い僧侶の姿は、あっという間に人ごみの彼方へと消えた。
「青木・・・・・・?」
呼んでみたが答えはない。深緑色の背中がやけに遠くて、三堂は青木の手に掴まれていないほうの手を重ねた。
青木の歩みがふっと遅くなる。
「青木」
やはり答えは返ってこない。
言葉を重ねる。
「何を怒っているんだ」
「――・・・・・・顔が」
しばしの沈黙の後、それだけがようやく返される。
「顔?」
「あいつと三堂さんの顔、が」
「うん」
「ち――」
そこで青木はなぜか言いよどんだ。振り向かないままうつむいて、言うか言わないか迷っているようだった。
髪の間から僅かに覗いた耳が赤い。
「ち?」
「ちっ・・・・・・近かったんですよ!」
怒ったように青木は三堂の手を振り払い、勢いよく振り返る。
その顔の赤さは怒りのためか、それとも別の要素によるものか。
「三堂さんはもう少し警戒心を持ってください」
決然とした表情で青木がそう言った途端、彼の腹が大音量で空腹を告げた。赤い顔がさらに赤くなる。
「腹が減ったのか」
三堂が訊くと、所在無げな肯定が返される。その伏せられた目を見てふと思いつき、三堂は青木の顔を両手で挟んで上を向かせた。大きく見開かれた瞳をぐっと覗き込む。
「な、」
「お前の瞳はきちんと黒いな」
「へ?」
「安心した」
それだけ言って三堂はふっと微笑んだ。手のひらが触れている青木の頬が熱を増す。
「何か買ってきます!」
青木は猛然と三堂の手を振り払い、どこかへ駆けて行ってしまった。残された三堂はぼんやりと自分の手のひらを見つめる。
(――熱い)
まるでそこだけが自分のものではないようだ。十月の夜の空気と比べて、なんと熱い。
その手を自分の冷えた頬に当てると、じんわりとした温もりが三堂の肌を温めた。代わりに手のひらの熱が去っていく。
急に冷え込みが強くなったような気がした。
羽織の前を掻き合わせる。それでもまだ足りなくて、二の腕の辺りを撫でさすった。
あの男は一体何をやっているのだろう。
食べ物を買っているだけにしては遅すぎる。まさかまた先程の占い師のような輩に捕まっているのだろうか、と三堂は人ごみの中に視線を走らせた。深緑の着物はどこにも見えない。
(あ)
見つけた、と思って足を踏み出しかけ、決定的な違いに気付いて動きを止める。
青木の髪は短いくせっ毛で、あんな風に結べるほど長くはない。
あの後ろ姿はむしろ――・・・・・・
(・・・・・・課長?)
何故か見てはいけないものを見てしまったような気がして、三堂はさりげなく目を逸らした。三堂などが目にしてはならない威厳のようなものが彼の周囲を取り巻いていた。
そう感じるのは三堂だけではないらしく、他の客の中にも霧島を畏れたかのように道を開ける者がいる。そんな様子を見ているうちに、霧島の姿は人波の中に呑まれて消えた。
(え?)
とっさにどこか違和感を覚えた。自分でも理由が判らないまま目を凝らし、その原因に思い至る。
霧島が見えなくなった辺りから先には、人の姿が見えないのだ。
他の薄暗がりにちらほら見受けられるような、木の幹に寄りかかって一休みしている人、祭の喧騒を横目に雑談している人々の姿が、その空間にだけ欠けている。
(なんで――・・・・・・)
周りに視線をめぐらせると、人影でちらちらと遮られるその向こうに、鮮やかなオレンジ色が目に付いた。
作り物めいたあの色は。
「すみません、お待たせしました」
「――青木」
「はい?」
ようやく戻ってきた青木に、三堂は振り向かないままそれを示してみせる。
少し距離を置いて植えられた2本の植物。

――ほおずき。

「あ・・・・・・」
ここに至ってようやく本来の目的を思い出したのだろう、青木が間抜けな声を上げた。
『ほおずきを見つけたら、狐とウサギとイチョウに会える』。
「・・・・・・どうする?」
言いつつ肩越しに軽く振り向き、三堂は青木が持っているものを見て軽く顔をしかめた。
「食いすぎじゃないのか」
青木の腕に下がった、恐らく焼きそばやお好み焼きが詰まったパッケージで膨らんでいるのであろうビニール袋に目をやり、三堂が言うと、青木はたこ焼きを食べる手を止め、そうだろうかと言いたげに首を傾げた。
「これでもまだ少ないくらいですが。あ、三堂さんも食べます?」
「いらん」
答えた途端、視界の端に何かが映る。ゆっくりと顔を動かし、そちらに目をやる。三堂の肩越しに青木が覗く気配がした。
2人分の視線の先に、ほう、と青白い光が揺れる。
梢の影に灯る幽玄の蒼――

――鬼火。

否、狐火と呼ぶべきか。
「三堂さん、あれって――」
「しっ」
短く制し、三堂は怪火を睨み据えた。どれだけ目を凝らしてみても、そこに人の気配は見つけられない。
人為的なものでないのなら、取るべき行動は一つだろう。
不意に踵を返した三堂に、青木が戸惑いの声を上げる。
「え、三堂さん?」
「帰るぞ」
「へ」
「狐火には近寄らないことだ」
それだけ言い置いて、三堂はすたすたと歩き出す。慌てたように青木の足音がついてきた。
どこかで鈴の音がする。
「あれ、狐火って言うんですか」
「らしいな。私は祖母からそう聞いている」
「おばあさん?」
「ああ。山間部の出身だというので、民話の類をよく知っていたんだ。私も昔はよく聞かせてもらった。その中に狐火の話があってな――ああいう火が見えた時は、絶対に近寄ってはいけないのだそうだ。戻ってこられなくなってしまうから」
「え――」
それきり絶句してしまった青木に、最後まで三堂は霧島を見たことを言わなかった。


***



翌日出勤していくと、珍しく室内には霧島しかいなかった。他の者はまだ来ていないか、要請されて仕事に向かったかのどちらからしい。意外に思いながらも霧島に軽く挨拶をして三堂は席に着いた。
鞄に付けた鈴がささやかな音を立てる。それに反応して霧島が顔を上げた。
「縁日、行ってきたみてぇだな」
「はい。――あの、この鈴は」
「言っただろ、和服で行くと良いことがあるって」
おかしそうに霧島は笑った。確かに昨日、そんなことを言っていたかもしれない。
ほおずきの形をしたこの鈴は、昨日の夜、着物の袂から出てきた物だ。
表に『御心付』と書かれた手紙に同封されており、手紙の本文には達筆な字で『来年も御待ちしております 御崎源九郎』とあった。
三堂はもちろんそんな手紙に覚えはないし、御崎源九郎などという名にも覚えはなかった。ならばあの祭の人ごみの中で紛れ込んだのだろうと思っていたのだが。
「・・・・・・これは、祭の参加賞のようなものなんですか」
「そんなところだ。なかなか風情があっていいだろう?」
「はあ・・・・・・」
風情ねえ、と思いつつ三堂は鈴を指でつまんだ。着物と合わせるならいいかもしれないが、洋装にはあまり合わない物だと思う。
「御崎さんが作ったものなんですか?」
「そうだな」
「――御崎さんというのは」
「狐だよ」
いともあっさりと霧島は言ってのけた。
狐。そういえば彼は、狐とウサギとイチョウがどうのと言っていなかったか。
ならばあの青い炎は。
「あっちとこっちを繋ぐのに、ほおずきほど良いものはない」
不敵な笑みを浮かべた霧島が、誰か知らない者のように見える。
霧島の顔が常磐と重なる。燃えるように赤い赤い瞳。
意識がゆらぐ。
指先から転がり落ちた鈴が、ちり、と鳴る。三堂はびくりとして正気に返った。
霧島は書類に目を落としている。普段通り。先程の言動などなかったかのように。
「・・・・・・課長」
「お前は鋭い」
唐突に霧島は口を開いた。意表を突かれて三堂は黙る。
「他の奴らは気付かないものに気付く。見つけられないものを見つける。警察やるにはもってこいだ。だが――」
――だが?

「ここには来るなよ」

「・・・・・・え」
「来るなら、自分で決めてからにしてくれ。うっかり入られると困ったことになる」
「何を言っているんです?」
「片足突っ込むか突っ込まないかの話だ」
「判りません」
三堂は吐き捨てるように言った。
「わかりませんよ、来るだの入るだの片足だの、そんなものは知りません」
「そうか――」
霧島は一瞬だけ寂しそうな顔をした――ように見えた。
「そいつぁ良かった」
それでも彼は穏やかに微笑んでいた。しかしそれも僅かな間のことで、すぐにいつもの感情が汲めない顔に戻る。
途端に廊下から足音が響いてくる。
「おはようございまーす」
「おはよう」
「ああ、おはよう」
「あれ、三堂さんもそれ付けてるんですか」
三堂の鞄に付いた鈴に目を留め、青木は嬉しそうに自分の携帯電話を取り出して見せた。ストラップのところに三堂のものと同じ鈴がぶら下がっている。
「おそろいですね」
「祭に行った奴は皆持っているそうだが」
「そこは問題じゃないんです。僕らが同じものを持っているってところが重要なんです」
「ああそうか」
よく分からない理屈に三堂は曖昧に頷いた。どこがどう重要なのだか、三堂にはさっぱり判らない。
「これだけで祭に行った甲斐があるってもんです」
「私には判らん」
青木の台詞も常磐の台詞も――霧島の台詞も。
どいつもこいつも判らないことばかり言う。
けれど。
「判らないなら、それでいいんです」
――こいつは。
たった一言。それだけで氷解させてしまうから。
(私は相当こいつに依存しているな)
そんな三堂の思いも知らず、青木は何が嬉しいのかにこにこしている。
やれやれ、と小さな溜息を一つ吐き、三堂は日常へと戻っていった。







finish date 05.10.15



オマケ(占い師と青木の会話)


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