時折浮かんでは消えゆく泡を、鏡野は静かに見つめていた。
そこは海の中だった。どこまでも続く青、昼とも夜ともつかぬ明るさ、不思議と息苦しくはない。青い世界に唯一つある椅子、そこに鏡野は座していた。
この場所を海と呼んでいいのかどうか、鏡野は知らない。ただ、人が呼ぶ「海」とは全くかけ離れた存在であるということだけを、漠然と理解していた。
こぽ、と心地良い音を立てて泡が上へと昇っていく。それに映った像を見て鏡野はすっと目を細めた。
―――かの者は、未だ彷徨っているか。
足下より遥か下より生まれ出で、頭上より遥か高みへと消えゆくその泡は、無作為に外界の様子を映し出す。先程昇っていったその泡には、 鏡野が唯一覚えている男が映っていた。
シルクハットに燕尾服、腕に抱いた白うさぎ。幾百年もの時を経てなお変わらぬ格好。鏡野は、彼もまた「人」にあらざる者であると知っている。 彼が異界を渡り歩く者であるということも、何かを求めて異界を巡っているとも知っていた。
無作為であるはずの泡が幾度も彼を映し出すため、自然と鏡野も彼のことをよく知ることとなった。互いに悠久の時を過ごしてきた人ならざる者だから、 という親近感も手伝って、鏡野は彼を無二の同胞として認めていた。もしかしたら、そうした鏡野の感情が、泡の中に彼を映さしめているのかも知れなかった。
再び、鏡野の足下から泡が浮かび上がってくる。こんなすぐに泡が浮かんでくるのは久しぶりだ。それが数日ぶりなのか数千年ぶりなのか知らないながら、 鏡野はぼんやり考えた。
今度の泡には少女が映っていた。年の頃は十七・八といったところ、幼さの残る容貌に不釣合いな、強靭な光を宿す双眸が印象深い。
その双眸が何を捉えているのか気になって、鏡野は泡に手をかざす。泡は上昇する勢いを緩め、そのままゆらゆらと停止した。
そうして鏡野は泡を見やすい高さに持っていき、そこに映る少女を注視する。
彼女は何を見ているのだろう。想い人だろうか、それとも目を奪う美しさを湛えた何かだろうか。
或いは、何も見ていない?
鏡野が見守っている中で、少女はゆっくりと首を巡らす。周囲を探るように、何かを探すように。やがて目的のものを見つけたのだろう、 はっきりと意思を持って少女は視線を転じる。
そして少女は、泡越しに鏡野と視線を交えた。

***

気付くと雪穂は海中にいた。
だが、ここは本当に海の中だろうか。息苦しくも何ともないし、水の中特有の浮遊感がない。どこに光源があるのか、暗くもない。 それに、雪穂の肌を包んでいるものは水と呼ぶに相応しくないような気がした。
ただ、視界いっぱいに広がる青だけは、雪穂の良く知る「海」と同じ色をしていた。
そうして辺りを見回して初めて、雪穂は自分の目の前に誰かいることに気付いた。椅子に座した銀髪の青年。ひどく整った顔。紺青の双眸は驚愕に見開かれている。
「あなた、誰?」
発した声は、泡を伴うことなく空間に響いた。やはりここは、海とは違う場所らしい。
「ここは何て言う場所なの?」
再度青年に訊ねてみるが、一向に答えが返って来ない。不審に思って彼の顔を覗きこんでみる。そこでようやく反応があった。 青年はぎこちなく身じろぎし、幾度か口を開閉させる。それはまるで、声を出す術を忘れてしまっているかのようだ。いくばくかそうしているうちに喋り方を思い出したらしく、 喉から声を捻り出すようにして青年は雪穂に問いかけた。
「あ、―――あなたは、何故、ここに」
雪穂としては先にこちらの質問に答えてもらいたかったのだが、質問されてそれを無視するのも気が引ける。軽く溜息をついて雪穂は返した。
「そんなの、こっちが聞きたいくらいだわ。誰かに見られてるような気がして、それで振り向いて。で、気付いたらここにいたんだもの」
そう、雪穂がしたのはただそれだけ。特別何かしたわけでもないのに、こんなところへ来てしまった。
「―――済みませんでした」
唐突に謝られ、雪穂はぐっと眉根を寄せた。彼に謝られる謂れなどないはずだ。
「何であなたが謝るの」
「・・・私が、あなたをこちらに呼ぶ原因を作ってしまったようですから」
それを聞いて、雪穂はさらに眉間のしわを深くする。だが、ふと思いつき、まさかと思いつつも訊いてみる。
「私を見ていたのはあなた?」
すると青年は頷いた。
「ええ。私と目が合った瞬間、あなたはこちらに引かれたようです」
正確な理由は青年にも分からないようだった。もとよりそんなことに興味はなかったため、雪穂もそれ以上は追究しない。
「・・・こんなの初めてだわ。振り向いただけで別の世界に来ちゃうだなんて」
溜息とともに呟くと、それに答えるが如く、青年も呟いた。
「その割には、随分と落ち着いておられる」
なるほど、彼が言うのももっともだ。確かに、普通はこんな状況に置かれたら慌てるなり何なりするだろう。だが雪穂はそうしない。 言葉の裏に隠れた疑問を察し、雪穂は肩を竦めてみせた。
「ま、ちょっとした理由があってね。こういうことには慣れてるの。そういう知り合いも持ってるし」
「知り合い・・・?」
青年は訝しげに眉をひそめた。雪穂は頷く。
「そう。シルクハットに燕尾服で、うさぎを抱いて、人を食った笑い方をする嫌な男。名前は―――本名だかどうだか知らないけど、 『名を持たぬもの』って言ってたわ」
そこまで言って、雪穂はまだ青年の名前を聞いていなかったことに気付く。今度はきちんと答えてくれるだろうかと思いつつ、 雪穂は青年に訊いてみた。
「あなたの名前は?」
青年は一瞬、目を見開いた。どうやら名前を訊かれるとは思っていなかったようだ。しかし、今度はきちんと答えてくれた。
「私は、―――私は、鏡野と申します」
「キョウノさん、ね。私は柳川雪穂」
「ユキホさん、ですか」
「そう」
「ユキホさんは『名を持たぬもの』とお知り合いなのですか?」
「知り合いってほどでもないわ。私が一方的に追いかけてるだけ」
「追いかけて・・・?」
鸚鵡返しに呟いて、鏡野は少し首を傾げた。雪穂が彼を追いかける理由が分からないのだろう。一生懸命考えている鏡野の姿が微笑ましくて、雪穂は目元を和ませた。
「昔、あいつに連れまわされた時に色々あってね。いつかあいつを捕まえてやろうと思ってるの。私は負けず嫌いだから」
「捕まえて、それでどうするのですか?」
「そうね。―――『ざまあみろ』って笑ってやるわ」
答えながら雪穂は、かつてない奇妙な感覚を味わっていた。鏡野と会うのは、間違いなくこれが初めてだ。似た顔の知人がいた記憶も、 同名の知人がいた記憶もない。なのに何故か、初対面だと言う気がしないのだ。
鏡野と会ってからまだ一時間も経っていないはず、友人と呼ぶには早すぎる。互いの事だってろくに知らない。けれど、「友人」などと言う言葉では、この関係を表すには足りない。 「親友」でも足りないくらいだ。
雪穂は、まるで数百年来の知己のように、この銀髪の青年を懐かしく感じている自分を知った。
タイミングを見計らって、そのことを口にしてみる。
「不思議ね。何だか私たち、ずっと前から知り合いだったみたいだわ」
それを聞いて鏡野は「そうですね」と微笑んだ。
「私はずっとここであなたがたを見ていましたから。泡を介して、外界を眺めているのです。―――ほら、このように」
鏡野はちょうど浮かんできた泡の上に手をかざして上昇を止め、雪穂に示す。
「あなたは私の視線に気付いたほどですから、無意識のうちに私の存在も知って、・・・」
そこで何故か、鏡野は言葉を途切れさせた。あまりに不自然なそれを訝しく思い、雪穂は彼の視線を追う。
鏡野は食い入るように泡を見つめている。正確には、そこに映っている像を。
泡の中には、名を持たぬものが映っていた。
「あ」
思わず、雪穂は声を上げた。シルクハットに燕尾服、腕に抱えたうさぎ、口元に浮かんだ、人を食ったような笑み。紛れもなくそれは名を持たぬものだった。
何故、と疑問を持つより早く、泡は鏡野の手のひらから逃れて雪穂の目の高さまで昇る。まるで意思を持っているかのように動くその泡から、雪穂は眼が離せない。
世界を映す泡の中で、名を持たぬものは笑っている。世界のどこにも敵などいないかのように、全てが移ろう様を見届けるかのように。
ふいに名を持たぬものはシルクハットを上げ、それまで陰になって見えなかった目元を露わにした。うさぎのような真紅の瞳。雪穂を見て笑う。
瞬間、雪穂は海が揺らぐのを感じた。

***

「お久しぶりです、ミスター鏡野」
雪穂と入れ替わるようにして現れた名を持たぬものは、そう言って鏡野に微笑みかけた。
シルクハットに燕尾服、腕に抱えた白うさぎ。相変わらずの格好だ。彼は青き世界をぐるりと見回し、嬉しそうに呟いた。
「やはり『果ての海』はいいですね。居心地が良いし、何より、いつ来てもここは変わらない。―――良い場所だ」
うさぎもそう思ったのか、ふいに彼の腕の中でもぞもぞと動き出した。それに気付いて彼はうさぎを放してやる。うさぎは軽やかに飛び跳ねて、どこかに行ってしまった。
「常磐」
鏡野は彼を呼び、その紺青の双眸で彼をきつく睨み据えた。
「常磐。あなたは、一体いつから『名を持たぬもの』などと名乗るようになられたのです」
静かな怒りを込めた鏡野の視線など意に介した様子もなく、常磐はククッと喉で笑った。
「彼女に名を問われた時からですよ。私の名は、私と対峙する者が決める」
「私はあなたの名を決めた覚えなどありません」
言い返せば、常磐は口元の笑みをよりいっそう深くした。
「それでも、そうと定まっていたのです。貴方が私を呼ぶ名は『常磐』、彼女が私を呼ぶ名は『名を持たぬもの』。誰もが自覚しないうち、 私の名は定まっている」
「『名を持たぬもの』が名である、と?そんな矛盾したことを仰るのですか」
「勿論ですとも」
常磐は笑う。
「かつて私が彼女と対峙した時には、彼女はまだ己を持っていなかった。己を持たぬ者に私の名は定められない。だから彼女が私を呼ぶ名は 『名を持たぬもの』と言うのです」
ひどく楽しげな様子の常磐に、鏡野は深々と溜息をついた。彼の言はいつもこれだ。相手が理解できるかできないか、ぎりぎりのところを紡いでいく。 その言葉で相手が惑う様を、彼は楽しんでいるのではないかと思う。
再び漏れそうになった溜息を飲み込んで、鏡野は常磐に問いかけた。
「では、彼女があなたに名付けるのはいつのことです」
「もうそろそろです。彼女はすでに、こちらの世界の者と化した。私を捕まえるのも時間の問題でしょうから」
鏡野はがばりと視線を上げた。
「常磐、あなたは」
「おや、お気付きになりませんでしたか?―――彼女は、私たちの同胞ですよ」
驚愕に見開かれた鏡野の紺青の瞳とじかに視線を交え、常磐はゆるやかに微笑んだ。
「彼女がこちらに来れたのは、偶然ではない。異界の境を越えられる者と、異界の様子を見守る者と。二つの視線が交わった時、 異界の境は揺らぐもの。彼女はその揺らぎに呑まれ、『果ての海』へとやって来た。鏡野、あなたはユキホを見て懐かしさを感じませんでしたか? ユキホは貴方を見て『懐かしい』と言ってはいませんでしたか?」
思い当たって鏡野は目を閉じた。確かにユキホはそう言っていたし、自分もそう思った。そうか、あれが。
「あれが、彼女が我々の同胞である証拠なのですよ、鏡野」
「・・・だから彼女は、ここを訪れることができたのですか?」
「ええ、勿論。異界を越える力を持たねば、その身が滅んでしまうでしょう」
ごく当たり前のように答えられ、改めて鏡野は常磐の力を思い知った。幾つもの異界を自在に飛び越えてゆける男。一体どれだけの力を持っていることか。
幾星霜もの時を経て、彼はどれだけのものを見てきたのだろう。たった一人で、異界を旅して。
そこまで思って、鏡野は気付いた。―――もしかして。
「もしかして、あなたが求めていたのはこれなのですか?」
自分と同じ、異界を渡り歩く者。人ならざる己と共に歩んでゆける者。常磐なら、それを望んでもおかしくはないと思った。
常磐は問いに答えない。その代わりとでも言うように、鏡野ににっこり笑ってみせた。
「彼女はきっと、退屈を忘れさせてくれますよ」
ああ、そうだ。彼は何より退屈するのを嫌がっていた。そのことに思い当たり、鏡野は黙って苦笑した。
退屈を厭い、時に自ら混乱の渦を生み出す常磐。自覚していないかもしれないが、雪穂もまた同じ性情を持っている。鏡野はそう感づいていた。
確かに、彼女なら退屈を忘れさせてくれるだろう。
「あぁ、相棒が戻ってきましたね」
見れば、青一色の世界の中、真っ白な物体が跳ねるようにこちらへと向かってきていた。対象物がないせいで遠いのか近いのかも分からないが、あのうさぎは時間も距離も飛び越える。ぽんと一つ飛び跳ねると、うさぎは常磐の腕の中に納まった。
「それでは、そろそろ行くとしましょうか」
シルクハットを持ち上げて別れの辞を述べようとする常磐を、鏡野は思わず呼び止めた。
「常磐」
「何です?」
「あなたは先程、『私があなたの名を定めた』と言いましたね」
「ええ」
「では、私の名を定めたのは?」
自分でも何故、そんなことを訊きたいと思ったのか分からない。けれど鏡野は、そうせねばならないという理由の知れない衝動に駆られていた。
常磐と会う以前には、鏡野は名など持っていなかった。この場所には鏡野一人で、誰かに名を呼ばせる必要などなかったから。
常磐は真紅の目を細め、ひどく楽しげな様子で笑った。
「私ですよ、鏡野」
鏡野はぴたりと動きを止めた。
「名にはそれぞれ意味がある。鏡野は照覧、雪穂は純粋、我が相棒の烏兎は歳月、そして常磐は不変を表す。―――私は、気に入っているのですが?」
歌うような常磐の科白は、相変わらず噛み合っているのかどうか分からない。それでも、何故かそれだけで納得できた。
「それに、誰かに名乗る名があるというのは良いことです」
独り言のように常磐は呟き、シルクハットを持ち上げて、優雅な所作でお辞儀した。
シルクハットを被り直し、ウインクしながら常磐は微笑む。
「では、いずれまた会いましょう」
途端に常磐の姿は揺らぎ、空間に溶けるようにして消えた。
椅子の背もたれに寄りかかって頭上を仰ぎ、ほうと鏡野は息を吐く。
―――楽しき時は過ぎ去った。
孤独は別に嫌いではない。泡に映る世界は見ていて飽きないし、興味深くもある。けれど話し相手がいれば楽しい。その程度のもの。
まあとりあえず、と鏡野は口元を緩める。
―――待つ楽しみが増えたと思おう。
そういう意味で、訪問者が増えたのは鏡野にとって喜ばしいことだった。
異界を渡る者が二人もいれば、泡を覗く楽しみも増えるというものだ。
こぽ、と快い音を立て、ひときわ大きな泡が昇りくる。その泡には少女が映っていた。
年の頃は十七・八といったところ、幼さの残る容貌に不釣合いな、強靭な光を宿す双眸が印象深い。
鏡野は目を見張り、泡に手をかざして上昇を止めた。その口元には笑みが浮かんでいる。
少女は何かに気付いたように周囲を見回し、ある一定のところまで来ると何故か慌てて目を伏せた。その様子が可笑しくて、 鏡野はついつい笑ってしまう。
鏡野の笑い声が聞こえたかのように、少女は憮然として口を引き結んだ。と、何かを思いついたらしくポケットに手を伸ばし、 そこに入っていたメモ帳に何かを書きつけ、そのページを破り取る。
泡越しに鏡野が見守る中、少女はメモ用紙を折り始めた。くるくると器用に動く指先が、やがて一つのものを作り出す。
「見ていろ」と言うように少女は笑い、その手に持った紙飛行機を虚空に投げた。
す、と肩の上に何かが乗るのを感じ、鏡野はそこに手を伸ばした。紙の手触りがそこにある。つまんで目前に持ってきてみれば、 間違いなくそれは紙飛行機だった。
泡の上昇を止める手を離し、鏡野はそっと紙飛行機を開いた。そこには少女の筆跡が躍っている。
<気が向いたらまた、お邪魔するわ>
書いてあったのはたったそれだけ。しかし、鏡野を笑わせるにはそれで十分だった。
―――何とまあ、面白きことか。
これだから退屈しないのだ。彼らはいつだって、鏡野が予想もできないことをしでかしてくれる。
全く、楽しくてしょうがない。
今からもう、彼らの来訪が楽しみだ。
鏡野は丁寧にメモ用紙を折りたたみ、失くしてしまわぬよう胸ポケットの中に滑り込ませた。
そして椅子の背もたれに寄りかかり、いつものように泡が昇ってくるのを待った。
唯一いつもと違うのは、その口元に笑みが浮かんでいることだけ。
青い世界にただ一人、鏡野は浮かんでは消えゆく泡を見守り続けている。



後記

こ、こいつらの話、書きやす・・・っ!
「アリス・イン・ワンダーランド」を書いてる時もそうでしたが、何故この手の話は憑かれたような勢いで書けてしまうのでしょう。
あれか。常磐の呪いか。(笑)
作中に出てくる『果ての海』という名前は当初『世界の眼球』となっていたのですが、もう一つの話「ブラインド」を書くに当たって書き直しました。それ以外はまあ、変わってないはず(おい)
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

up date 04.10.30.



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