美月は道路を駆けていた。
ばさばさとはためくドレスの裾がうっとうしい。幾重にも好奇の視線が注がれるのを感じるが、そんなものに構ってはいられない。
遠くでクラクションの音がする。
(早く、逃げないと――・・・・・・)
また、あいつらに捕まってしまう。それだけはごめんだ。
頭がふらつく。足が痛い。けれど、逃げなくては。
史上最大のミス。こんな最低の経験は初めてかもしれない。
目指す看板が目に入り、美月は走る速度を上げた。着いたら倒れるかもしれないが、知ったことではない。
今はただ逃げるだけ。
ガラスのドアを突き破りかねない勢いで押し入り、美月は叫んだ。
「お願いします、かくまってください!」
そして彼女の視界は暗転した。



【史上最大のミス】



「まったく、この馬鹿者が!」
貫一郎はカルテを書きながら怒りを込めて呟いた。
背後の診察台には、ドレス姿で駆け込んできた姪――霧島美月が不機嫌そうな顔で腰掛けている。
反論せずにいるところを見ると、自分の不手際を自覚しているのだろう。
「お前ら兄弟は、俺の病院は避難所ではないと、何度言ったら分かるんだ?患者の間に妙な噂が流れて困っているんだ」
「・・・・・・すみません」
「分かったなら、今度から誘拐されるような不覚は取るんじゃない」
「言われなくてもそうします」
むっとした声で美月は返した。自分の失敗に言及されたのがよほど悔しいらしく、その声には怒りがにじんでいた。
「ちょっと、貫一郎。あんまり怒鳴ってると診察室まで聞こえちゃうわよ?」
ふいに居住スペースへと続くドアが開き、貫一郎の妻・樹里が顔を出した。小さな箱と水の入ったコップが乗った銀の盆を持っている。
貫一郎は書き終えたカルテを持って立ち上がった。
「聞こえても心配ない。患者は皆、診終えたからな」
「あら、いつの間に?」
「お前がそれを取りに行っている間にだ。診察から受付まで、俺一人でやったんだぞ」
「ごめんねー?あたしはあんまり使わないもんだから、どこに置いたか忘れちゃってて」
「聞いているのか」
「聞いてる聞いてる。はい、それと水ね」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、美月は差し出された錠剤とコップを受け取った。半分は優しさでできているというそれを一息に飲み干す。
「貫一郎。不覚は取るんじゃないって言ってもね、女の子にはそうもいかない日があんのよ」
「・・・・・・知っている」
「だったら黙っときなさい、朴念仁。美月ちゃん、服はどうする?」
「心配ない。もう呼んである」
「呼んだ?誰を」
「帝だ」
貫一郎が答えた途端、正面玄関の前に車が止まる音がした。どうやら折り良く到着したらしい。
ほどなく、待合室へと続くドアから帝が入ってきた。
「その様子なら大丈夫だな」
「ええ。決定的なダメージを受けたのは、私のプライドくらいのものです」
「そうか」
帝は軽く笑い、手に持っていた紙袋を投げてよこした。中には、ここに来る途中で買ってきたらしいシャツとジーンズ。
しかし、紙袋のロゴを見た美月は顔をしかめた。
「・・・・・・『ARCADIA』ですか」
「嫌いだったか?」
「いいえ、特には。まあ、服に罪はありませんしね・・・・・・」
言いながら美月は立ち上がり、樹里に断って奥へと引っ込んだ。その後ろ姿を眺めながら帝は首を傾げた。
「・・・・・・服に罪はない?」
「そう言っていたな」
「美月は誘拐されたと言っていたな?」
「ああ」
「それとこれとが関係あるの?」
「勘だがな」
帝は奥へと続くドアをノックし、美月に呼びかけた。
「美月。お前の着ていたドレスを」
言い終える前にドアが開き、美月が着ていたドレスが投げつけられた。言葉を続ける暇もなく、ドアは猛然と閉められる。
「・・・・・・何だあいつは」
「おおかた、これを見ていたくもなかったんだろう。――ああ、やはりな」
「何が?」
「見てみろ。これも『ARCADIA』の製品だ」
「あら本当。よく気付いたわね」
「店に並んでいた商品と作風が似ていた」
それにしても鋭いと言わざるを得ないだろう。さすがは霧島の長男だ、と貫一郎は思った。
兄弟たちを率いる者ともなると、格が違う。
不意に響いたドアが開く音。帝たちは一斉に振り向いた。
「早かったな」
「そう時間が掛かるものでもないでしょう」
着替えを終えた美月は、さっきより幾分良くなったものの、まだ不機嫌さをひきずっているようだった。
白いシャツにジーンズの服装とその表情が妙に似合って見えるのは、どこか中性的な風貌とあいまってのことだろうか。
帝はドレスを軽く持ち上げて見せ、美月に問うた。
「これはお前の不機嫌に関わっているのか?」
「ええ、とても根深く」
「首謀者は志賀コーポレーションの者か」
「その通り」
頷き、美月は再び待合室へと続くドアノブに手をかけた。
「首謀者の名は、志賀明弥というのです」
「志賀、明弥?」
「ええ。――帝、行きましょう」
美月と帝は連れ立って診察室を後にした。
「志賀コーポレーションの御曹司じゃないの!」
樹里の悲鳴じみた絶叫が聞こえてきたのは、その直後のことだった。




志賀コーポレーション。ファッション業界を中心に、自動車産業から輸入業まで幅広い分野を手がける超大手。
若年層向けファッション店『ARCADIA』は、志賀コーポレーションを支える基幹の一つだ。
美月が『ARCADIA』のロゴを見て顔をしかめたのは、そのせいだった。
「この間、どこぞのパーティでストーカーに出会ったと言っていたな。それが志賀の御曹司か」
「ええ。こんなことなら父さんの代理なんて引き受けるんじゃありませんでしたね」
「父上の代理だったのか?俺はてっきり、深紅の代理だと思っていた」
「深紅にも届いていたようですけれど、あれは『そんなことで休日の夜を浪費できない』と断ったんです。父さんは急な仕事が入ったせい で私に代打を頼んだわけですが。あなたにも届いていたんじゃないんですか?」
「断った。社交は苦手だ」
「でしょうね。参加者名簿がそのまま犯罪者名簿になってもおかしくなさそうなメンツでしたし。あんなメンツばかり揃える志賀も、相当 ヤバいことに手を染めているのは確実です」
「覚えておこう。それで、何があったんだ?誘拐だけでそこまで不機嫌になったとは言わせんぞ」
「・・・・・・・・・・・・誘拐されて薬を飲まされて、私に婚姻届の署名を強要した後それを提出。ウェディングドレスに着替えさせた挙句に挙式を強行」
これには、さすがの帝も押し黙った。そこまでやるか。
なるほど、ここまでされれば誰だって不機嫌にもなる。
「・・・・・・ということは、お前は今、既婚者なのか」
「本人の意思に反する婚姻は無効です」
答える声はとげとげしく、ひどく嫌そうだった。バックミラー越しに美月の表情を覗き見れば、かつてないほど不快さがあらわになっていた。
彼女は感情を包み隠すのが上手い。なのにこうも表情に出ているということは、隠し切れないほど激しい感情が内側に渦巻いているという ことだ。そのまま犯罪に走らないといいのだが。
「その辺は後で役所に乗り込めば済むのですが」
「実行するなよ」
早口で釘を刺した帝を無視し、美月は運転席のシートの背もたれに拳を埋めた。
「荷物を奪われました。無線もディスクも刀もあの中に入っていたのに・・・・・・!」
悔しげな美月の台詞に、帝は戦慄した。
荷物を奪還する暇もなく、逃げ出さざるを得なかった悔しさは分かる。その度合いが恐ろしく激しいことも。
しかし、美月は今、と言った。間違いなくそれは日本刀のことだ。
今日は平日。つまり「荷物」というのは学校に持っていっていた荷物である。
その中に日本刀が入っていたという事実が、何より帝を戦慄させた。
ちなみに無線は霧島家の者が普段使う連絡手段の一つだ。携帯電話も使いはするが、使用頻度はこちらのほうが高い。
「・・・・・・ディスクというのは、何だ?」
嫌な予感を押し殺して帝は聞いてみた。が、彼の勘はやはり正しく。
「司に送る予定だったCD−ROMですよ。ウイルスのデータだの薬物調合のレシピだの、彼が欲しがっていたデータを詰め込んだ。帰りがけに郵便局へ持っていくつもりだったのに」
それは奪われて正解だったかもしれない。
「他に、取られたものは?」
「制服です。あのストーカー、匂いをかいだりしていたら思い知らせる程度じゃ済ませませんよ」
「そう、だな」
帝は思わず声を引きつらせた。兄弟たちの母親――霧島巴も結婚に関して一悶着起こしたことがあるそうだが、やはりこれは血筋なのだ ろうか。
詳しくは知らないが、深紅と黒曜もそうだというから、血筋なのかもしれない。
「ふふ・・・・・・どうやって逆襲してやりましょうか・・・・・・」
聞く者を戦慄させる低い声。プラス、不吉を絵にしたような「魔女の笑み」。
帝はアクセルを踏む足に力を入れた。




自分は油断していたのだろう。あんな罠に引っかかるだなんて。
運転手が標的に道を訊ね、相手がそれに答える間に味方が標的の背後に回り、車に押し込める。そんなものは常套手段だというのに。
もともと、あのパーティで知り合った直後から、明弥は頻繁に美月の身辺に現れていた。その時点で警戒しておくべきだったのに。
会うたびに夕食だの映画だの、その種のことに誘って。そのたびに美月は断って。
断るたび、彼の目にちらつく危険な感情に気付くべきだった。
思考能力低下の原因は、やはりこの「女の現象」にあるのだろう。思考能力どころか、身体能力まで低下してしまう。
車に押し込められる時、有効な反撃の一つもしてやれなかった。
抵抗はしたのに、効いた気配がなかったのだ。敵にダメージを与えることもできないなんて、屈辱極まりないことだった。
そして薬を嗅がされて気を失っている間に志賀コーポレーションの本社へと連れて行かれ、そこで美月は誘拐の目的を知ったのだった。
――貴女を手に入れるために。だって、貴女は金や権力につられる人間には見えませんから。
だから力ずくになってしまったのだ、と。明弥はそう言って笑ったのだった。
――結婚しましょう。僕は貴女を幸せにします。貴女の望むものなら、何でも与えてあげられます。
だったらお前の命をよこせ、と言ってやりたくなった。というか、実際に言ったのだ。それでも明弥は嬉しそうにした。
――ああ、それでこそ僕の望んだ女性です。殺されるのは困りますが、そう言ってくださる貴女は最高の女性です。
それを聞いて美月は、脅迫や強硬手段は無意味と悟った。被虐趣味のある人間に、そんなものが効くはずもない。
確かに志賀コーポレーションの御曹司に向かって「命をよこせ」という女性は少ないだろうが、だからといって結婚しろというのも迷惑 極まりない話だ。
しかし、断る術は薬によって奪われてしまった。
思考力を低下させ、相手を従わせやすくする類の薬だったのだろう。おかげで結婚届に署名までするはめになってしまった。
――どうぞ、このドレスを。貴女の写真をあらゆる角度から分析させてサイズを測りましたから、ぴったりのはずですよ。
この、ストーカーが。
美月は真剣にそう思った。どこまですれば気が済むのだ、この男は!
明弥の言葉通り、マーメイドラインのドレスは気持ち悪いほどぴったりだった。
吐き気がする。
訴えることも叶わず、式場に連れて行かれた。
左右に居並ぶ志賀の幹部や部下達。白で統一された内装。中央に敷かれたヴァージンロード。初老の神父。
いつの間に準備したのか、そこは立派な結婚式場になっていた。
地上32階。ガラス張りの壁から見える光景は、周囲のビルと家々の屋根、そして空のみ。
式場としてここを選んだ理由は、風景の良さか、脱出の不可能さか。
祝福の音楽。溢れる拍手。ヴァージンロードを辿って甘やかされすぎた狂者のもとへ連れて行かれる。
吐き気。不快。屈辱。――怒り。
誰が、こんな馬鹿者の妻などになるものか。
――綺麗ですよ、美月さん。
薄汚い目で私を見るな。たやすく私の名を呼ぶな。
この薬は効かない。私は動ける。ここから脱出するのは可能だ。
神父が長ったらしい文句を並べている間、必死に自己暗示をかけた。ゆっくりと、深く呼吸する。
傍目には緊張を解こうとしているように見えたのだろう。解こうとしているのが緊張でないことに、誰一人として気付かなかった。
志賀の御曹司と結婚。相手の女性は最高の幸せに恵まれている。
笑わせるな。
――神の定めに従いて、夫婦となろうとしています。あなたは、その健やかなる時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。
お決まりの、神父からの問いかけ。御曹司は迷わず「誓います」と答えた。
人が創りだした神。人が創りだした定め。何故、そんなものに誓わねばならない?
美月は軽く掌を開閉させた。思い通りにきちんと動く。薬の呪縛は解けた。
「私は、夫なんていう生易しい存在は要らない」
ようやく美月は言葉を発した。しかしそれは、神父の問いかけに対する否定の答え。
ヴェール越しに明弥を見据え、強い口調で叩きつけた。
「貴様の愛が真実だと断言できるなら、捕まえてみろ!」
転瞬、美月は駆け出した。――ガラス張りの壁に向かって。
端にいた男が座る椅子を奪ってガラスに叩きつけ、甲高い音を立てて割れたそこに戸惑うことなく身を躍らせる。破片が肌を掠めたが、そんなものは問題にならない。
上から志賀の連中が叫んでいるのが聞こえた。飛び降り自殺と受け取ったのかもしれない。
けれど、私は死なない。
そこで初めて美月は笑った。勝利を確信した戦士の笑み。
肩まである手袋を片方脱ぎ、すぐ近くにあるビルの壁を力強く蹴った。
体がわずかにビルから離れる。それで十分だった。
手袋の端をそれぞれ掴み、背に肩に木の葉が触れた瞬間にそれを振る。
大木の枝に手袋が引っかかり、ロープウェイの要領で幹へ向かっていく。
叩きつけられる寸前、運良く枝分かれした場所に引っかかって止まった。手袋を放して地面に着地する。
正面玄関から溢れ出てくる志賀の部下たち。美月は舌打ちしてドレスの裾を下から腰まで引き裂いた。
命を狙われているのでないだけ幸いだろう。明弥もさすがにネクロフィリアの趣味はないはずだから。
車を盗るには時間が足りない。とりあえず先頭の2・3人を薙ぎ倒し、後続に投げつけて時間稼ぎをする。
怯む追っ手を尻目に、美月は地面を蹴って走り出した。

そして、冒頭に至るというわけである。






もともと不在の目立つ父であったが、今日ばかりはいなくて良かった。ベッドに寝転がりながら美月は思った。
美月が苦手とする数少ない人間の筆頭が、父だった。失態を犯すこと自体が屈辱であり苦痛だが、それを父に報告するのはもっと苦痛だった。
あの静かな目に見つめられる時の息苦しさは言いようもない。
そして報告を受けた時は何でもないような顔をしているくせに、その実、腹の中に想像するのも恐ろしいほどの怒りを抱え込んでしまうのだ。
周囲の者を根こそぎ殺してしまいそうなほどの、怒り。
できる限りそんなものは見たくなかった。自分が原因の怒りならば余計に。
(報告する時には、全部終わらせておきたい)
全面解決。
その機会があるとするなら、次のパーティか何かで志賀の本社に再び乗り込む時だ。
それがいつになるかが最大の問題なのだが、そう遠くない未来にもう一度、チャンスはめぐってくるだろう。
再び、今度は完全に、自分を捕らえるために。
相手がそのつもりで準備した場だとすれば、当然、それをひっくり返すことは厳しくなる。それどころか、汚名を塗り重ねることになりかねない。
(でも)
もしも、その場に美月が立たなかったら?
その考えをきっかけに、猛烈な勢いで計画が組み立てられだした。
荷物を奪い返すには?セキュリティをかいくぐるには?効率よく志賀にダメージを与えてやるには?
トーカー。シンドラー。フラスター。シーフ。
蜘蛛の糸を張り巡らせ。
(――いける)
天井を見つめたまま、美月は口の端を吊り上げた。
(見破ってみなさい。そこに愛があるというのなら)
思い知るが良い。魔女に屈辱を味わわせた罪の大きさを。
霧島きってのダークネスは、静かに笑った。

update 05.04.24
改訂 06.07.02



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