「まったく、師匠は何を考えていらっしゃるんだか・・・・・・」
ぶつぶつと呟きながら、一人の少年が人ごみの中を歩いていた。
少年の手には、皮で装丁された分厚い本が数冊と、書類が入っているらしき封筒、食糧が詰め込まれた紙袋。そして、買うべきものがびっしりと書き連ねられたメモ用紙が握られていた。
少年の名はヴィンセント、とある魔術師のもとで修行を積んでいる身――いわゆる「魔法使いの弟子」だ。
魔術師が尊敬を集めるこの国では、その弟子もまた尊敬されるものだ。しかし、少年を取り巻く空気には、誇らしさなど微塵もない。むしろ、諦めと言ったほうが正しいような雰囲気だ。
その原因は、たった今少年が行ってきたばかりの魔術師組合にあった。いや、師匠にあるというべきだろう。
思い返すだけでも不愉快だ。
ヴィンセントは色鮮やかな果物や野菜が並べられた店の軒先をひょいと覗き、そこに書かれていた値段に軽く肩を竦めた。
これなら、もう少し行った先にある青果店で買い物したほうが良さそうだ。
師匠に託された金貨の量と買うべき物資の値段とを考え、ヴィンセントは溜息をつく。
先程の出来事といい、財布の中身といい、不満だらけだ。
「――魔術師が貧乏だなんて!」
天を仰いで嘆く魔法使いの弟子に、幾人かの通行人が好奇の眼差しを向ける。ヴィンセントは顔を赤らめ、慌てて下を向いた。
それもこれも、師匠のせいだ。
不満交じりにそんな事を考え、ヴィンセントは買い物を成し遂げるべく別の青果店へと足を向けた。




しんと静まり返った室内に、カードをめくる音が響く。
家具や生活用品の一切見当たらない中に唯一ある、向かい合わって置かれた2つの椅子と丸テーブル。先程から室内に響いている音の源であるトランプは、この丸テーブルの上に広げられている。そしてそれをめくっている男と、男の指がカードをめくる様子をじっと見つめている若い女性だけが、この部屋に存在する全てだった。
足首まである黒いローブ、首には星を象ったペンダント、背に流れる神秘的な黒色の髪。男のそんな風貌から、彼の職業が占い師に類するものであると知れる。女性のほうは客だろう。進行していく占いに、真剣そのものの態度で臨んでいた。
「スペードの8」
男の指があるカードを裏返すと、女性ははっと息を呑んだ。スペードが不吉を示すものだと知っていたからだ。
しかし男はそれを気にした様子もなく、実に穏やかな表情のまま、次のカードの上に指先を滑らせた。まるで、カードの示す意味など何も 問題はないとでも言うように。
「クラブの7」
今度は比較的良い意味のカードだ、と女性は表情を和らげた。男のほうはと言うと、殆ど表情を変えていない。次に彼がめくったカードはスペードの10――災いや不運を示すカード――だったが、それでもやはり穏やかな表情を崩すことはなかった。
そうやって全てのカードが開かれると、女性はすがるような眼差しで男を見つめた。彼女の不安を察し、男は柔らかな微笑を浮かべてみせた。
「ご心配するには及ばないようです。相手の男性とは、きっとうまくいくでしょう」
女性は見る見るうちに顔を輝かせ、ありがとうございます、と深く頭を下げた。
彼女が出て行くのを見送ってから、男は入り口のドアに掛けてあった「OPEN」の札を裏返して「CLOSED」に替えた。
もっとも、どうせ客など皆無に等しいのだから、そんな行為は大して意味を成さないのだが。
ふう、と男は溜息をつき、部屋の中に戻って卓上のトランプを片付け始めた。
男の名はレオナルド、職業は魔術師。決して占い師ではない。
魔術師組合にも籍を置き、魔術師名鑑にもきちんと記載されている立派な魔法使いなのだが、ここを訪れる客はそのことをまず知らない。それどころか、占い師としてさえ無名なのだから始末に終えない。
「師匠、ただ今戻りました」
裏口から入ってきた不機嫌そうな声に、レオナルドは振り向いた。自分の代理で組合に向かわせた弟子が帰ってきたらしい。
「おかえり、ヴィンセント」
レオナルドが出迎えると、ヴィンセントは彼の手中にあるトランプに目を留めて眉を逆立てた。
それに気付いたレオナルドは慌ててそれを背後に隠したが、もう遅い。ヴィンセントはレオナルドに詰め寄った。
「師匠、また勝手にトランプを新調しましたね?道具が新品だと信用されにくいと、あれほど言ったじゃないですか!」
「いいじゃないか、そう高い買い物でもないし。手垢だらけのトランプじゃ使う気が起きないんだよ」
「高い買い物じゃなくても出費は出費です!ただでさえ少ない稼ぎなんですから、有効に使わないと」
ははは、と笑ってごまかし、レオナルドは話の矛先を逸らそうと別の話題を探して頭を巡らせた。
「ところで、組合での様子はどうだったね?」
「最悪でした」
ヴィンセントはきっぱりと答え、荷物を乱暴に卓上へと下ろす。そして持っていた封筒の中から一枚の書類を取り出した。
「名鑑の記載要項が変更になったから、新規書類を提出してこいとおっしゃったのは師匠ですよね?」
「ああ」
「その要項にはきちんと『証明写真は普段と同じ格好で、本人と確認できるもの』と書かれていたはずです」
「そうだね」
「だったら、それをどう解釈すればこんなことになるんです!」
ヴィンセントは取り出した書類を勢いよくレオナルドの鼻先に突きつけた。
書類の右上にはでかでかと「再提出」の赤いはんこが押されており、そこに貼られた証明写真には綺麗にカールした金髪を肩に垂らし、きっちり化粧して微笑むドレス姿の女性が写っていた。
「本人って書いてあるじゃないですか、本人って!なんでお見合い写真なんか・・・・・・!」
「お見合い写真?まさか。それは私だよ
「師匠ォォォォォオオオオ!?」
何やってるんだあんた!と如実に訴える視線をかわし、レオナルドは他の書類をあらためる。新規加入した者の情報が記載されている書類は魔術師名鑑――ファイル形式になっている――に綴じ込み、組合を脱退した者の書類はリストを確かめつつファイルから抜いていく。
その作業が終わる頃、レオナルドの背後から脱力しきった弟子の声が這い寄ってきた。
「・・・・・・師匠、貴方は何のためにこんなことを・・・・・・」
「前に同じ写真を提出したら通ったのでね、今度も通用すると思ったんだが」
思わないでくださいそんなこと。っていうか、まさか今現在もその女装写真が載って・・・・・・」
「そのとおり」
何考えてるんですか!だからお客さんたちは師匠の顔を知らないんじゃないですか!?」
「だろうねえ」
「師匠・・・・・・!」
ヴィンセントは本気で泣き出しそうな顔をして崩れ落ちた。
分からない。この師匠が何をしたいのか、いや何を考えているのかも全く分からない。
「そんなことばっかりしてるから、組合の奴らにも無能だ落ちこぼれだと馬鹿にされるんです!」
「はっはっは」
「占いの一つもろくにできない無能者、なんて言われてるんですよ?腹が立たないんですか!」
「特には立たないね。私が占いの手順を知らないのも、適当にそれっぽくやってごまかしているのも事実だ」
それが当然のことのように振舞う師匠に、ヴィンセントは肩を落とした。
そうだった。レオナルドがやっているトランプ占いは、正規の手順にのっとって行われているのではないのだった。
カードの並べ方はトランプ占いではなくタロット占いのものだし、そもそもレオナルドはカードの意味なんて覚えていない。
「52枚分の意味なんて覚えきれない」というのがその言い分だが、これでなぜインチキとして訴えられないのだろうか。
「なんで訴えられないんだか・・・・・・」
思考の末尾がヴィンセントの口から無意識に零れる。レオナルドは得意げに胸を張った。
「手順を知らない分、私は勘が冴えているからね。ここの占いが外れたという話は聞かないだろう?」
「良く当たるという話も聞きませんがね」
まじないや占いに関する噂は数多く、人々の口に上る機会も多い。しかし、なぜかここの噂は聞いたことがない。 良い意味にしろ悪い意味にしろ、噂がないのだ。――だからこそ、いつまで経っても無名のままなのだが。
「噂なんて流れるわけがないだろう。本気で悩んでいる知人に対して、誰が私のようなうさんくさい輩を紹介するんだい」
(このバカ師匠・・・・・・!)
胸の内に溢れる家出したい衝動を必死に押さえ、ヴィンセントは拳を震わせた。何で自分はこんな師匠のもとにいるのだろう。
いくら組合が決めた配属とは言え、教えを請うべき師匠がこれではあんまりだ。
「師匠・・・・・・。いい加減、あなたの本気を見せてください・・・・・・」
がっくりとテーブルに手をついたヴィンセントの肩を、元気付けるようにレオナルドが叩く。大丈夫だ、とでも言うように。
期待を込めて上げられた双眸を覗き込み、レオナルドは微笑んだ。
「ヴィンセント」
「はいっ!」
「私はいつだって本気だよ」
ヴィンセントは激しくへこんだ。
(いつだって本気ってことは、日頃の無能っぷりもインチキっぷりも全て・・・・・・!
どうしよう。この無能っぷりは全て演技で、本当は物凄い実力を秘めているんだという希望だけを心の支えにしてきたのに。
今すぐにでも組合に駆け込んで、別の師匠を紹介してもらうべきだろうか。でも、レオナルドにはこれまで養ってもらった恩がある。
ぐるぐると悩んでいるヴィンセントの耳に、突如弾けた笑声が飛び込んできた。
「はっはっはっはっは!そ、そんなに悩まなくてもいいじゃないか・・・・・・!」
何秒か置いてからようやくからかわれたのだと気付き、ヴィンセントは顔を赤くした。
「師匠!」
「はっはっはっはっはっは」
「笑いすぎですよ師匠!」
真っ赤な顔で声を荒げるヴィンセントを手で抑え、もう一方の手で目尻の涙を拭う。そしてレオナルドは不意に言った。
「まあ、いいだろう。見せてあげるよ、私の本気とやらを」
それを告げたのが笑いで若干震えた声、しかも目尻の涙を拭きながらのことだったので、ヴィンセントには冗談を言っているのだとしか思えなかった。
しかしレオナルドが物置から杖を持ってくるにあたって、それが冗談などではないと気付く。
材質は何だろうか、オリーブ色の石が嵌った純白の杖。そこから濃厚な魔術の気が漂ってくる。
「師匠、その杖は」
「私が昔作ったものだよ。これだけは本物だと保証する」
「へぇ・・・・・・」
ヴィンセントは驚きと感嘆が入り混じった眼差しでそれを見つめた。ここまでの品は、そう簡単には作れないはずだ。
杖を使うのは、力の強い――杖を使って魔力を制御する必要がある――魔術師のみ。それを思い出し、ヴィンセントは師匠を見直した。
(良かった、ただのペテン師じゃなかったんだ・・・・・・!)
こんなことで喜ぶ魔術師の弟子もそうはいないだろう。
しかしヴィンセントはそれに気付かない。彼は鈍感なのだ。――この鈍さこそ、組合が彼をレオナルドのもとに配属した理由の一つなのだということにも気付かないほどに。
その「鈍感な弟子でなければやっていけない師匠」レオナルドはポケットからチョークを取り出し、肩越しに振り返ってヴィンセントに問う。
「召喚術でいいかい?一番確実に覚えているのがそれなんだけれど」
「あ、はい」
ヴィンセントとしてはむしろ実力の程が分かれば何でもよかったので、ここは素直に頷いておく。
召喚用の丸鏡を中心に、五本の線から成る星の図象。異界との門を示す黄道十二宮の紋章。星の頂点それぞれに接するよう描かれた円、それをぐるりと取り囲むルーン文字の連なり、再び円。一番外側には世界を示す惑星の紋章。ベーシックな召喚術の陣だ。
しかし、その作業が進んでいく過程でヴィンセントは気付いた。レオナルドが描き連ねていくルーン文字の配列は、ヴィンセントが今まで見たことのあるどんな魔法陣とも違っている。
この配列こそ、どの世界の者を召喚するか決める重要なものであるというのに。
(まさか、これも勘で描いているとか・・・・・・!?)
その恐ろしい可能性に気付いてからは二つの意味でドキドキしだしたが、きっとこれは自分なんて知ることもできないような高等魔術なのだと必死で自分に言い聞かせる。そうでもしないと心臓がまずいことになりそうだ。
「できたよ」
「はいっ!?」
完成した陣の文字配列をどんなによく眺めてみても、やはりヴィンセントの記憶にあるどんなものとも一致することはなかった。
これが適当に描いたものでないのだとしたら、彼は一体、何を呼び出すつもりなのだろう。
「久しぶりだなあ、向こうの世界と接触するのは」
やたら嬉しそうに呟いて、レオナルドは鏡の上に杖をかざした。チョークを取り出したのとは逆のポケットから小さな袋を取り出し、 そこから水晶の粉末をつまんで陣の上に振りまく。
「ジン・ニクサ・パラルダ・ゴーブ。我の呼ぶ者、我が呼びかけに応えよ」
それはヴィンセントが聞いたこともないような、力強く美しい発音の呪文だった。
自分が唱えるたどたどしい呪文とはまるで違う。朗々と響く確かな声。圧倒される。
これだけの人がどうして、こんな場末の占い師の身分に甘んじているのだろう。信じられない。凄い。
この感覚を言い表す言葉が見つからない。
レオナルドを中心に、息が詰まりそうなほどに強い魔術の気が渦巻いている。
「ティファレトの名を以って汝を呼ぶ。応えよ、ヴィクトール!」
途端、闇が弾けた。
死臭と血の匂いが辺りに広がる。ヴィンセントは思わず口元を覆った。
「召喚者はお前か」
いつの間にか、鏡のすぐ上に黒い靄の塊が浮かんでいた。どうやらそれがレオナルドの召喚したものらしい。声はそこから聞こえる。
「そうだよ、私が呼んだ」
「望みは何だ」
「とりあえず帰ってくれないか、邪魔だから」
「・・・・・・は」
あまりの物言いに、ヴィクトール(推定)は押し黙った。恐らく、言うべき言葉が見つからないのだろう。
数拍分の気まずい沈黙が流れた後、ヴィクトールは震える声をひねり出した。
「・・・・・・わざわざ呼び出してきたにも関わらず、邪魔だから帰れなどと言うのか」
「ああ。私が君を呼び出したのは、単なる腕試しでしかないからね」
だから帰ってくれ、とレオナルドはヴィクトールの正当な抗議を手で追い払い、腕を組んだ。
「それとも、私を殺すかい?ヴィクトール」
その挑発するような台詞に応えるかのように、靄の形が揺らぎだした。不意にそこから鋭い爪を持つ腕が突き出る。
レオナルドの首めがけて伸びてきたそれを、彼は杖で叩き払った。
「師匠―――――――!?」

そんな逸品で何てことを!と蒼ざめたヴィンセントをよそに、レオナルドはテーブルの横を覗き込んだ。そこにある何かを杖の先でつついて確かめる。
「だから師匠、杖の使い方間違ってますってば!」
「いいじゃないか。どんなものにも意外な使い道はあるものさ」
「師匠のそれは杖に対する侮辱なんです!」
周囲に満ちた悪臭も忘れて語気荒く言い放ち、ヴィンセントは師匠のもとへと歩み寄る。そうして初めて、テーブルの横に倒れている男に気付いた。彼がヴィクトールであり、先程レオナルドが杖の先でつついたものなのだろう。
几帳面に撫でつけられた黒髪、誠実そうな目元、手入れの行き届いた口髭。床に倒れたせいだろう、いかにも高級そうな仕立ての燕尾服が埃で汚れている。
床に倒れている立派な紳士と、それを杖でつついている自分の師匠と。どっちが善人らしいかは一目瞭然だが、今度ばかりは好奇心が勝った。
「師匠、彼は何者なんですか?召喚されて来たんですから、人間じゃないのでしょう」
「悪魔だよ」
「へえ」
いとも平然と返されたので、ヴィンセントは思わず普通に返事してしまった。一拍置いて、師匠が何を言ったのかに思い至る。
「って、あ、あ・・・・・・悪魔ぁ!?」
「そう。えーと、ランクで言うなら中の上。地獄の大公バアルの配下だ」
「えっ・・・・・・そんな凄そうな方を、腕試しで!?」
「ああ。私も若い頃は色々無茶したからね。自分がどれほどのことをできるのかはそれなりに把握しているつもりさ」
(怖・・・・・・・・・・・・っ!?)
意味ありげな笑みを浮かべる師匠から、ヴィンセントは思わず一歩離れた。普段が普段だけに、彼がそうすると妙な凄みがある。
――力のある魔術師ほど、性格や思考のクセも強い。
魔術師になろうと組合に行った時、そしてレオナルドの下に配属されると決まった時。組合の職員に言われた言葉だ。今さらながらヴィンセントはそれを実感した。
「・・・・・・う」
「おや」
ヴィクトールが軽く呻いたのに気付き、レオナルドは一歩下がった。それとほぼ同時にヴィクトールは起き上がり、乱れた髪を撫でつけながら立ち上がる。
「目覚めはどうだい?ヴィクトール」
「最低だ」
それはそうだ。あんな目に遭ってなお「目覚めは最高」と言い張れるなら、ヴィンセントは本気で彼を尊敬するだろう。
不機嫌極まりないヴィクトールの返答に気を悪くした様子もなく、レオナルドは笑う。
「正直で結構。それで、帰る気はないかい?」
「ない。480年ぶりに呼び出されておいて何もせずに帰るなど、私の信条に反する。どうしても帰れというなら」
すっと目を細め、ヴィクトールはレオナルドを見据えた。が、当の本人は平然と立っている。
その喉に手をかけられてなお、彼は平然としていた。
「・・・・・・お前の命と引き換えにするが?」
脅すようにヴィクトールがレオナルドの瞳を覗き込む。そうされて初めてレオナルドは反応を示した。
――笑った。
動揺して身を引きかけたヴィクトールに、レオナルドの言葉が向かう。
「殺せないさ。お前ごときに私は殺せない」
「・・・・・・お前に、私が劣っていると?」
ぐ、とレオナルドの喉にヴィクトールの指が食い込む。それでもレオナルドは笑みを消さない。
「師匠!」
――レオナルドの手が、ヴィクトールの手首を掴んだ。
「・・・・・・!?」
ヴィクトールの動きが止まる。レオナルドの手指は細い。しかしそこから信じられない力が加えられていることは、ヴィクトールの腕への食い込み方を見れば明らかだ。
「――――勝負をしないか」
レオナルドの口から零れたのは、あまりに唐突な申し出だった。少なくともこの場面で出るべき言葉ではない。
「・・・・・・どんな勝負だ」
興味を惹かれたらしいヴィクトールはゆっくりと指を解いた。同時にレオナルドも手を放し、首についた跡をなぞりながら、けれど苦しむ様子は見せずに口の端を吊り上げる。
「私が勝てば、きみは私の支配下に置かれる。きみが勝てば、私は問答無用で命をやろう」
「師匠、何を考えていらっしゃるんです!」
思わずヴィンセントは声を張り上げた。が、レオナルドは「構うな」というように手を振っただけでヴィンセントのほうを向きもしない。
「ルールは『ヴィンセントを傷つけないこと』『家を破壊しないこと』。これだけだ。どうだい?」
「・・・・・・受けて立とう」
その言葉を合図に二人は立ち位置を僅かに変え、互いに数歩下がって身構えた。
ヴィクトールは脚を肩幅に開き、鋭い鉤爪を見せ付けるように構える。
レオナルドは彼から目を逸らさぬまま、悠然と杖を掲げた。
「武器はそれだけか」
「もっと強そうな武器がお望みかい?」
「呆気なく死んでもらっては困るのでな」
「そうかい」
ならばと軽く頷き、レオナルドはテーブルの上に置いてあった長方形の箱を手に取った。「これが武器だ」と言わんばかりにその箱を小脇に抱える。ヴィンセントとヴィクトールは、思わず声を連ねて疑問を吐いた。
「・・・・・・師匠?」
「何だ、それは」
「箱ティッシュ」
すがすがしいほどの即答ぶりだが、どう考えても武器ではないそれを使って、どのように悪魔と戦うというのだろう。
ヴィクトールはこめかみに青筋を立たせた。
「・・・・・・それは、私を侮辱しているのか?それとも、冗談のつもりか」
「まさか。私はいつだって本気だ」
数十分前にも聞いた台詞を繰り返し、箱からティッシュを一枚引き抜いて、レオナルドは不敵な笑みを浮かべた。
「きみは、ティッシュで人が殺せると思うかい?」
「思わんからこうして怒っているのだ」
「そうかい。じゃあ、考え直してもらわないとね」
言いながらレオナルドはティッシュを人差し指と中指とで挟み、手首を返してヴィクトールの後ろの壁へと投げつける。
本来ならば1mも飛ばないはずのそれは勢いよく直線を描き、まるで矢のように壁に刺さった。
「・・・・・・・・・・・・」

ヴィンセントとヴィクトールは、揃ってティッシュの刺さった場所を見つめた。
刺さっている。間違いなく。張り付くとかめり込むとかではなく、さっくり刺さっている。
「・・・・・・師匠」
「なんだい?ヴィンセント」
壁に刺さったティッシュから視線を逸らすことなく、静かにヴィンセントは問いかけた。普段と変わらぬ調子でレオナルドは応じる。
「この家って、鉄筋コンクリート二階建てですよね」
「そうだよ。4LDKの天文塔付きだ」
「師匠の持ってるティッシュは、れっきとした紙ですよね?」
「もちろんだ。地球に優しい再生用紙で5箱1パック198スタンのお買い得品だよ」
「知ってます、買いに行ったのは自分ですから。――ってことは何ですか。自分は今まで、コンクリートの壁にも刺さるような凶器で鼻かんだり怪我した傷口押さえたり黒光りするGの亡骸包んで捨てたりしてたってことですか」
「そういうことになる」
「・・・・・・師匠?」
ヴィンセントの声のトーンが一つ下がった。怒り出すのかと思いきや、不意を突いて彼はレオナルドに縋りつく。
予期せぬ事態に身をこわばらせるレオナルドの胸倉を掴み、ヴィンセントは泣き叫んだ。
「なんで・・・・・・なんで貴方は、それだけの実力をこんな馬鹿なことにしか使えないんですか!
「あー・・・・・・趣味だからかな」
「こンのバカ師匠ォォォォォオオオオオオ!」
がッ、と鈍い音がしてヴィンセントの右フックがレオナルドの頬をとらえた。もろに殴られたレオナルドの体が傾ぐ。
「ふっ・・・・・・いいパンチだヴィンセント。さすが僕の弟子だね」
「魔術とパンチに関連はありません!」
「それもそうか。だがここで親父にも殴られたことがないと言う例の台詞 を吐かずに耐えた僕は立派だと思わないか」
「思いませんよこれっぽっちも!」
再び泣き出しそうな様子のヴィンセントに、見かねたヴィクトールがティッシュを差し出す。
「垂れているぞ、・・・・・・鼻水」
「すびばせん」
「優しいねえ、ヴィクトール」
「鼻血を垂らしっぱなしにしている輩に言われても嬉しくはないな」
「これは失礼」
師弟揃ってティッシュで鼻を押さえている様子を見て、ヴィクトールは複雑な気持ちになった。自分を呼び出したレオナルドは鼻血を垂れ流し、 そのレオナルドを殴り飛ばしたヴィンセントは鼻水を垂れ流している。しかも彼らが使っているティッシュは、 今しがたレオナルドが壁に投げ刺した凶器と同じものだ。そんな状況に自分はどう対応すればいいのだろう。


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