――19世紀初頭、フランス。 売れない作曲家の僕は、よく憂さ晴らしと称して教会の鐘楼に登る。抜群の眺めと極上の静寂が好きだった。街の喧騒など遠い場所の出来事だと、そこにいる間だけは思うことができたから。 ささやかな町の灯と星だけが煌く深夜、やはり僕は鐘楼に登るべく螺旋階段を辿っていた。ここの番をしている爺さんとはすでに顔馴染みで、最近は僕の訪問を喜んでさえいるようだった。まあ教会の不寝番なんて、暇以外の何物でもないのだろうけれど。 爺さんはよく、ランプも灯さずに階段を登る僕を向こう見ず呼ばわりするが、僕は一向に平気だった。もうこそこそする必要もないのだから、と爺さんは軽口を叩く。でも僕がランプを灯さずにいる本当の理由を爺さんはまだ知らない。 ところどころにある明り取りの窓から多少の光が入ってくるものの、わだかまる闇が支配する中をランプを灯さず登るのは、決して誰かに見つかることを恐れているからではない。 普通の人間ならひどく気味悪く思うことなのだと、僕は短い間に学んでいた。 階段を登る足音だけが夜に響く。ふとその中に別の音を聞いて僕は顔を上げた。 女の声――らしかった。話し声ではない。一音一音区切るようにしているところからして、発声練習のようだった。張らずともよく通る、澄んだ声。 (誰だ・・・・・・?) 声の主に気づかれないよう足音を忍ばせて階段を登り、陰からそっと頭を出して様子を窺った。柱と柱の間に鮮やかなシルエットが浮かんで見える。 シンプルな形のドレスはばら色、その背に波打っている髪は艶やかな焦茶。白い手袋をはめた腕は折れそうに細く、それでいて背筋の伸びた立ち姿は凛としていた。 ことさらゆっくりと音階を一つずつ声に出し、すう、と息を吸って細い喉に指を添える。 そして彼女のアリアが僕をさらった。 全ての感性を歌うことに向けたような声、寸分も余計なものがない。まるで彼女自身が歌であるかのように。それは同時に聞く者の感性をも釘付けにした。彼女の歌が今あるものの全てになる。 神に愛されし歌姫―― 彼女が誰で何故ここにいるのかなんてどうでもいい、ただこの声をいつまでも聴いていたかった。 この声を聞き続けることができるなら何をしても構わない。他の何もかもを捨ててもいい。僕は本当にそう思った。不朽の名作はもちろん、僕が破り捨てた楽譜さえ、彼女が歌うなら天上の音楽と化すだろう。それを想うと胸の内がざわめいた。 作曲したい。 衝動的に僕はそう考える。神の歌声が耳にとどまっているうちに。鳥肌が立つほどの感動に身を浸しているうちに。つくらなければ、書かなければ。僕の持つ全てをもって、今すぐに! 震える手で鞄の金具に手を掛ける。鞄一つ開ける手間がもどかしくて仕方がない。うまく外れない金具がかたかたと鳴る。 あ、と思ったときにはもう、鞄は僕の腕から滑り落ちていた。 とりかえしのつかない騒音が響く。 彼女の歌声がふつりと途切れ、恐ろしいほどの静寂が鐘楼を支配した。僕は今さら鞄の散らばった中身を拾うこともできず、ただただその場に立ち尽くす。彼女はゆっくりと振り向いて、大きな瞳で僕を薙ぐ。 目が、合った。 はしばみ色の瞳をしていた。透き通るような白い肌をしていた。モノクロに限りなく近い視界の中で、彼女だけが鮮やかに色づいて見えた。彼女と視線を交わしている時間が永遠のように感じられた。 そのまま時間が止まってしまえばいいと思った。 「――誰?」 彼女の唇からこわばった声が投げかけられる。その内容よりも、彼女の声が僕に向けられたという事実に動けなくなった。 天上のアリアを歌ったその声が、僕に! 返事のない僕をいぶかしんでか、彼女はすっと目を細めた。「誰」ともう一度誰何する。今度は強い警戒の色をにじませて。それに気づいた僕は慌てて両手を目の高さに上げ、敵意がないことを示した。 「僕は――・・・・・・さ、作曲家・・・・・・です」 情けない、と自分でも思った。本来ならここで名を名乗るべきではないのか。しかし僕の中の何かがそれを阻んだ。名乗りたくない、ことにファミリーネームは知られたくない。 思ったとおり彼女は不審に思ったらしく、「作曲家?」と眉をひそめる。 「どうしてここに」 「・・・・・・憂さ晴らし」 他に答えようなんてないけれど、これで信用してもらえるとは到底思えない。思ったとおり彼女は警戒を解かず、僕の周り――正確には、僕の足元に散らばった物品――を見回した。 そしてさらにうさんくさそうな目で、僕に向かって問い質した。 「ただの憂さ晴らしなら、どうしてランプを持っていないの?」 「それは――」 しまった、と僕はとっさに唇を噛む。爺さんの忠告に従っていればよかった。本当の事を言っても信じてもらえるはずがない。 しかし言わなければ、彼女はこのまま僕を警戒し続けるだろう。それだけは絶対に避けたかった。絶対に。 僕の秘密と引き替えにするには、彼女の歌の魅力は大きすぎた。 秘密と魅力の間をさんざん迷ったあげく、彼女以上にこわばった声で「見えるから」と僕は答える。 「ランプは明るすぎるんです、僕にとっては」 「・・・・・・明るすぎる?」 「そう。僕はこの明るさでも十分見える。姿形だけでなく、色も」 こくり、と白い喉が上下した。信じがたい思いでいるのだろう、試すように「じゃあこの色は?」としなやかな指でドレスをつまむ。 迷わず僕は「ばら色」と答えた。 「――だったら、これは」 彼女は胸元に手を当て、そこに輝くブローチを示してみせた。きらきらと光る楕円形の石。僕は思わず目を見張る。 その石は半透明の乳白色で、中にいくつもの色が揺れていた。たとえようもない光の魔法。 今まで見たどんな宝石にもないきらめき。 「・・・・・・虹色だ・・・・・・」 思わず呟いてしまってから、彼女の視線に気づいて反射的に目を伏せた。今の答えで彼女の疑問は確定しただろう。前髪で隠した目の辺りを彼女に見られているのが分かる。 どんな反応をされるだろう。気味が悪いと思われただろうか。忌み嫌われてしまうだろうか。もしそうならば、僕は。 ――僕は。 すう、と彼女が息を吸う音が聞こえた。 「あなたは人間よね?」 かすかに震えた声が彼女の不安を物語っていた。はしばみ色の瞳がまっすぐ僕へと向けられている。 それすら光栄に思ってしまう僕も相当だ。彼女と視線を結んで僕は答える。 「僕は人間だ。――神に誓って」 「・・・・・・そう」 彼女の肩から力が抜けた。安堵したように微笑んで胸元の石を握り締める。それを見つめる僕に気づいて、彼女は苦笑してみせた。 「これ、お守りなのよ。何かあった時、こうするのが癖になってて」 「それは何という石なんです?」 「オパール」 初めて聞く名前だった。お守りというからには彼女の守護石なのかもしれない。その神秘的な色が妙に彼女に似合って思え、僕はそんなことを考える。 とにかく彼女に忌み嫌われずにすんだのだとぼんやり思い、壁にもたれたところで落としたままの鞄に気づく。慌てて紙やら万年筆やらを拾っていると、彼女もそれを手伝ってくれた。差し出された楽譜をそっと受け取る。 「・・・・・・ありがとうございます」 ふっと彼女は微笑んで、僕の瞳を覗き込む。 「きれいな色――エメラルドみたいだわ。あなたのお守りはきっとその目ね」 「それは・・・・・・どうでしょう」 「だって猫は見えないものを見るって言うでしょう。夜でも見える猫の目だったら、普通は見えないものも見えそうよ。例えば――幽霊とかね」 そう言って彼女はくすくすと笑った。反応に困った僕は視線を逸らして身じろぎする。そんなふうに言われたのは初めてだった。 「・・・・・・どちらかといえば、あなたのほうが猫のようです」 「そうかしら?――ねえあなた、変にかしこまらないでよ。私はただのコーラスガールだから」 「うそだ」 思わず僕は否定した。あれほどの歌声を持つ彼女がただの引き立て役だなんて信じられない。しかし彼女はそっとかぶりを振るだけだった。 「じゃあ、さっきの歌は?次の公演の練習じゃないのか」 「違うわ。ただ歌いたかっただけ。私がここに来るのは、どうしても歌いたい時だけだもの」 「そうか・・・・・・残念だな」 「え?」 「せっかくきれいな声なのに」 僕がまじめにそう言うと、彼女はさっと頬を紅潮させた。 「お世辞はやめて」 「本当のことだ」 心から僕はそう言った。オペラ座の舞台は歌姫の魅力を最大限に引き出すためにある。飾るものの何もない素の歌声でさえ身動きを忘れてしまうほどなのだ、これで彼女が舞台に立ったら――・・・・・・。 考えただけで鳥肌が立つ。演るもの全てが大成功を収めるだろう。 「・・・・・・私は舞台に上がれないのよ」 彼女は哀しげに目を伏せた。僕の視線を避けるように、鐘楼のきわまで歩いていく。そのまま飛び降りてしまいそうなほど、ぎりぎりまで。 そのまま彼女は床の途切れたところに腰を下ろし、パリの夜景をじっと見つめた。静かな声で独白する。 「最近、嫌がらせをされてるの。みんな私がいないみたいに振舞って、話しかけても誰も答えてくれなくて。ここのところは役ももらえてないから、余計に」 「・・・・・・どうして」 「分からない」 彼女はそっと首を横に振った。 「でも、嫌がらせってそういうものだと思うわ。発端なんてささいなことで、本人も気付かないようなことで始まるのよ」 「きみはそれでいいのか」 「いいわけないじゃない!」 噛み付くように返されて僕は面食らった。はっと正気に返った彼女は口に手を当てる。 「・・・・・・ごめんなさい、怒鳴るんじゃなかったわ」 「構わない。でも、そうか・・・・・・。オーナーに相談は?」 「無理だわ。オーナーも私を無視してるから」 なるほど、と僕はため息をついた。オペラ座のオーナーからしてその調子では役などもらえるはずもないし、たとえ舞台に上がっても、周りとうまくやれなければ話にならない。 かける言葉が見つからなくて、僕は彼女の横に腰を下ろした。しばらく考えて「大変だったね」と口にする。 彼女は泣き笑いのような顔をした。 「・・・・・・ありがとう。こんなに他人と話したの、久しぶりよ」 「まだそんなに話してないだろう?」 「これでも多いくらいよ」 「そうかな?僕の友人を基準にしてるせいかもしれないな。あいつは話すために生まれてきたような男だから」 「へえ、どんな人?」 「おしゃべりで調子に乗りやすい、人を笑わせることに命をかけてるような奴。何度笑い殺されそうになったか分からないくらいだ」 「すごいのね」 「ただ、こっちの冗談には真顔で返してくるから困るな」 「ふふっ」 ――そうやって僕らは、たわいもない話をし続けた。互いの置かれている環境のことから美味しい紅茶の店のことまで、さまざまに。 歌っている時の崇高なまでの雰囲気とは違い、おしゃべりをしている時の彼女は実に表情豊かだった。はしばみ色の大きな目は見開かれたり細められたり、時につり上がったりもした。どうして嫌がらせになんて遭うのか理解できないくらいに魅力的だった。 あまりに楽しくて、僕は時が経つのも忘れていた。 ふと途切れた会話の合間に、僕らは揃って空を見上げた。うすく水色がかった地平線。もうすぐ夜が明ける。 「もうこんな時間だ」 僕は服についた汚れを払って立ち上がった。彼女と別れがたいのはやまやまだけれど、そろそろ帰らなければならない。 「行ってしまうの?」 「日が昇ってしまったら、眩しくて目を開けられなくなってしまうから。――・・・・・・きみは」 ふと言葉を途切れさせ、僕は口元に手を当てた。なんとなく、これを言うのは気恥ずかしい。 「何?」 彼女が軽く首をかしげて僕の目を覗き込む。それに負けた僕は「降参」というように両手を肩の高さまで上げる。 「きみは――また、ここに来るかい?」 「ええ。それがどうかしたの?」 「いや・・・・・・また会いたいな、と・・・・・・思って」 初対面の、しかも女性に向かってこんなことを言うのは初めてだった。顔の赤さは夜明けの薄闇がぎりぎりで隠してくれたと信じたい。 花がほころぶように彼女は笑う。 「そうね。――私はアンジェリーナよ。アンジェリーナ・ベルジェ。あなたは?」 僕は反射的に答えをためらい、不自然な間をあけてようやく「テオ」とだけ答えた。 「テオ?テオドール?」 「ああ。じゃ、また!」 言うなり身を翻し、僕は彼女の制止をふりきって階段を駆け下りた。途中で何段か踏み外したが、とにかくその時は無我夢中だったのだ。 ファミリーネームを聞かれたくなかったことより、この目の秘密を知っても逃げずにいてくれる相手に出会えたことよりも、彼女とまた会えるということに。 *** 「はっはっは、それでこの怪我か!」 「笑いすぎです、先生」 むっつりと僕がそう言うと、ヴォルテール先生はさらに笑った。手燭の炎がふらふら揺れる。 最低限の窓しか持たず、しかもそこにカーテンがかけられた僕の部屋はとても暗い。携帯用の照明器具は、僕の部屋を訪れる者にとっての必需品だった。そんな注意事項の周知を努める必要がないのは、僕の交友関係が極端に狭いせいだ。 ちなみにその狭い交友関係の内に含まれる一人、水を汲んだバケツの中に足を突っ込んだだけの処置を見かねて先生を呼んでくれたフランツ――僕のほとんど唯一と言ってもいい友人――は今、僕のベッドで堂々と寝ている。蝋燭の明かりさえ眩しい僕は天井に視線をやっているしかなかったが、耳を澄ますまでもなく聞こえる寝息で彼の熟睡ぶりは分かる。 僕の足に湿布を貼り包帯を巻きながら、ヴォルテール先生はまた笑う。 「別にファミリーネームを教えてやるくらい良いじゃないか。恥ずかしい名前をしているわけでもなし、相手がフルで名乗っているのに自分だけ言わないなんて不公平だ。紳士じゃないね」 「そこまで言いますか・・・・・・。それでも嫌なものは嫌なんです。作曲家でファミリーネームがモーツァルト、しかもヘボなんて、笑い話以外の何物でもありませんよ」 「じゃあフランツみたいに作曲家じゃなければ良かったのか?」 その言葉に反応するように、むにゃむにゃと寝言にもならない声がした。 庭師として生計を立てているこの友人のフルネームは、フランツ・フォン・バッハという。ちなみに僕ら二人とも、その偉大な音楽家の血を引いているわけではない。ただ同じ姓を持っているというだけだ。 のんきに寝ているフランツを横目に、僕は長いため息をついた。 「・・・・・・そうですね。違う職業だったら笑い話で済んだんでしょうけど」 「そうはいかない、か」 「・・・・・・はい」 僕は静かに目を伏せた。そう、違う職業ならよかった。でも僕は作曲が好きで、好きで、今さら転職するなんて考えられなかった。先生は色々なことに挑戦しろと言ってくれたけれど、作曲以上に僕の性に合う仕事なんてなかった。 そもそも昼間は役立たないこの目のせいで、できる仕事はかなり限られていた。 ヴォルテール先生はくしゃりと僕の頭を撫でた。優しく細められたその目がなぜか、覚えていないはずの父親を思い出させた。 「ま、思いつめるなよ。肩の力抜いてやるのが一番だから、な?」 「はい」 頭を撫でられる感触がくすぐったくて僕は笑った。ついでにぶらつかせそうになった足を慌てて先生が押さえる。 「あんまり動かすなよ、悪化しても知らないぞ」 「そうしたらまた先生が治してくれればいいだけの話でしょう」 「すぐ治すに越したことはないだろ。――湿布の余分をここに置いておくから、2・3時間おきくらいに貼り替えなさい。なくなる頃には俺が来るか人に頼むかして、新しいのを届けさせるから。完治しても油断はするなよ、捻挫はくせになるからな」 「はい」 僕がそう答えたところで、ベッドから大あくびが聞こえてきた。心底満足げなそれに、僕は呆れてため息をつく。 「ずいぶん幸せそうなあくびだな、フランツ?」 「うん?ああ幸せ幸せ。いやーよく寝た、ここは寝心地がよすぎるな。テオ、俺の部屋と交換しないか」 「下宿先を交換条件に出すんじゃない。ここが寝心地いいのは単に暗いからってだけじゃないのか?」 「おまけにここは静かだよ。俺のところは毎晩毎晩うるさくてなあ」 「お隣さんの痴話喧嘩はまだ続いてるのか?」 「ああ。昨日なんかジャンの奴、シュゼットに締め出されて凍えそうになってたぜ。それに最近、屋敷の周りを通り魔がうろついてるらしくて、その見回りがまたうるせえんだ」 「安全のためにやってることなんだから、そう言ってやるなよ」 「へいへい」 フランツは盛大にシーツを翻してベッドから降りた。その勢いで手燭の炎がふっと消え飛ぶ。薄暗い部屋はたちまち真っ暗になってしまった。 「わっ」 「フランツ!」 「ごめんごめん。・・・・・・先生、火ィつけ直してくれよ」 「これをつけたマッチで最後だったんだ。テオ、なにか火をつけるものは」 「持ってきます」 僕は目隠しを剥ぎ取って台所に行き、料理用のマッチの箱を手にとって、はたとあることに気がついた。 先生にマッチを手渡し、その疑問を口にする。 「先生。短時間だけ視覚が元に戻るということはありえますか?」 「短時間だけ?お前の目、元に戻ったのか」 ヴォルテール先生がマッチを擦る。僕は慌てて目を閉じた。炎が移動して蝋燭にともるのをまぶた越しの動きで感じる。 「・・・・・・戻った、ってわけじゃなさそうだな」 「光に対してはいつも通りですよ。僕がお聞きしているのは色についてのほうです」 僕は天井を見上げて目を開けた。お化けのような影がゆらめいている。木製の天井はやはり濃い灰色だ。 色、とヴォルテール先生がおうむ返しに繰り返す。 「見えるようになったのか」 「アンジェリーナと会っていた時はね」 フランツの言葉にそう返し、でも、と僕は先生のほうを指差した。 「そのマッチ箱、火のイラストが描いてあるんですから赤かオレンジ色ですよね」 「ああ。――これの色は見えない?」 「いつも通りの灰色です」 納得しがたいとばかりに先生がうなる。僕もこんな症状は初めてだった。 光に対して敏感に反応するこの目は、色彩を映してはくれない。額からまぶたにかけて残る傷跡を手でなぞり、かたんと椅子に腰を下ろす。 僕のこの目は生まれつきのものではないらしい。こうなる以前のことを覚えていないからはっきりと断言はできないが、色に関する記憶はあるし昼間の世界の様子も知っているから、おそらく以前は正常な視覚を持っていたのだろう。 僕は山道で馬車の残骸に埋もれて死にかかっていたところをフランツに拾われ、ヴォルテール先生の治療を受けて奇跡的な回復を遂げた。馬車は崖から落ちたらしく、その高さや御者が死体となっていたことからして、僕が生きていたのは幸運としか言いようがなかった。 そして意識を取り戻した僕は、自分に関する記憶と正常な視覚を失っていた、というわけだ。 今の名前は事故当時の僕の持ち物――Theodorと彫られた万年筆とモーツァルトの楽譜――からとった仮の名にすぎない。アンジェリーナに名乗るのがためらわれたのはファミリーネームのせいだけではなく、そんな偽りの名を名乗りたくなかったからでもあった。 あの鮮やかな色彩が僕の意識上だけのものでないことは、彼女の反応が証明している。一時的に色が見えるようになったとしか考えられなかった。 「そのアンジェリーナって女も色が見えなかったとか」 「はあ?」 突拍子もないフランツの言葉に、僕は思わず彼を見た。途端に光にやられて顔を背けた。顔をしかめたまま問い返す。 「どうしてそうなるんだよ」 「だから、お前の言った色が間違っていても訂正できなかったんじゃないのか」 「自分の持っている服の色くらいは覚えておかないか?僕ならそうするし、女性だったらなおさらだろう」 それに、とため息混じりに僕は続ける。 「彼女は僕の瞳を見て、エメラルドみたいだと言っていたよ」 「うーん・・・・・・。先生、こういう症例ってあるんすか」 「いや・・・・・・知らないな。そもそもテオの症例自体が特殊なものだし。生まれつきじゃない分、治る可能性が他より高いのは確かだろうが・・・・・・完全回復じゃなくて一時的というのが・・・・・・うーん」 「珍しいんですか」 「珍しいというか、完全回復なら時間のおかげと見ることもできるが、一時的なものっていうことは幾つかの条件が重なっていると考えるべきだろう?光の状態、テオの健康状態・精神状態、空気状態、その他もろもろ」 「その辺どうだ?テオ」 「どうだ、って言われても・・・・・・すぐ思い当たるほど特別な条件はなかったと思うよ」 「うーん・・・・・・」 いよいよ二人は考え込んでしまった。本当になんでだろう、と僕は昨日の晩のことを思い出す。 特別なことといえばアンジェリーナに会ったこと、アンジェリーナの歌を聞いたことくらいで、彼女に関すること以外はいたっていつも通りだったと言える。 やはりアンジェリーナが「特別な人」なのだろうか? アンジェリーナ(Angelina)というだけあって、奇蹟の力を持っているのかもしれない。さながら天使のように。 我ながらおかしすぎる考えに、僕はそっと笑みをもらした。 アンジェリーナの澄んだ声が頭の中で流れるように歌いだす。それは昨晩作り損ねた曲の一つ先――より高みに近づいた形の音楽だった。 甘い痺れに心臓がうずく。音符のひとつひとつが細胞に力を与えていくように、僕の中に音が満ちていく。 ――天上の音楽。 僕は蝋燭の炎を手で消し飛ばす。 「おい!」 「曲が来た。二人とも出て」 僕は口早に言ってオルガンの前に座った。闇の帳が下ろされた僕の視界の中、ドアを手で示す仕草が二人に見えているかなんてどうでもよかった。雲が太陽を覆ったのかカーテン越しの光もさっと弱まり、僕の中の音がいっそう強く鳴り響く。 音楽だけが僕の全てになる。 歌っている時のアンジェリーナはこんな気持ちなのかもしれない。 すっと目を閉じ、僕は鍵盤に全てを叩きつけた。 注釈 鐘楼の上の様子とか教会に不寝番がいるとか、その辺は創作です。 18世紀には一応、今と同じ形の眼鏡が登場していた模様。 吸血鬼信仰はまだまだ根深かった、というか、この辺の時代が最盛期だったようです。 守護石(星座石)は各星座に割り当てられた石のこと。その考えがヨーロッパに持ち込まれたのは18世紀頃のことだそうなので、時代考証的にはぎりぎりセーフかと。 ベルジェという姓は、マグリットの妻ジョルジェットの旧姓からいただきました。ヴォルテール先生は同時代の啓蒙思想家(?)から。 光は感知し、色は感知しにくいという症状は実在します。ただしこちらは先天的なもので、暗視能力はありませんが。 |
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