「この地には時折、『翼種』と呼ばれる人々が生まれるのだそうだ。
彼らは両腕を翼に変え、自由に空を飛ぶことができるのだという。」――――『サライア見聞録』 「翼種といふは異形の者にして忌むべき種族なり。 人の身にして天に近づくといふ禁を犯しながら、其れを特権と見る傲慢なりし種族なり。」――――『飛翔論』 「翼種の腕は、それ自体が罪である。人が空を飛ぶなど、あってはならない。」――――『人類の罪と罰』 どれもこれも、嘘っぱちだ。 【ソラオイ】 あたしはイヴリィ。翼種だ。 親父は赤ん坊のあたしを見るなり逃げ出して、それっきり戻ってこなかったそうだ。おふくろは発狂して病院の塀の向こう側。つまり、 あたしの境遇は「ほぼ孤児」ってとこだ。親戚もいるけど、あたしに関わろうとはしないしね。 全ての原因は、喉のすぐ下にある翼種特有のあざにある。これがなければ親父は逃げなかっただろうし、おふくろも発狂しなかったんだろう。同年代の奴らからハブられることもなく、近所のじっちゃんばっちゃんに嫌な目で見られることもなく?――ンなワケあるかよ。 つまり、あたしは自分の境遇を嘆いてるわけじゃないってことだ。だってこの印、生まれた時にはもうくっついてたんだぜ?どうやって取れってんだよ。皮剥げってか。喉のすぐ下なんて場所にあるのに?・・・・・・死にたくないなら、自分は翼種だって受け入れる以外に方法はない。 あたしはそうやって、自分の運命を受け入れた。でも、周りの奴らはそうもいかないらしい。 今現在、あたしの家。――村の外れにある図書館。 今現在いるあたしの友達。――活字てんこ盛りの諸君。どうしろっての。 時々ここに来て食事だの何だの届けてくれるシスターは「誰とでも仲良くしなきゃ駄目よ」なんて言うけど、正直言ってあたしは、自分に 石投げてきたり、聞くに堪えない罵声浴びせかけてきたり、あたしに向けて尻叩いてみせたりするような奴らと仲良くする気はない。 ってか、そんな気は起きない。 あんな嫌味な奴らと仲良くするくらいなら、あたしは一人でいたほうがいい。そのほうがずっと気楽だ。 ・・・・・・翼種が忌むべき存在だなんて、誰が言い出したんだろうなあ。 もしそいつがあたしの目の前に立ってたら、あたしはきっと、そいつの頬めがけて平手打ちを繰り出してるんだろう。しかも全力で。 こんなのってずるい。もし誰かが「黒は悪魔の色だから黒髪の奴は呪われた種族なんだ」なんて言い出したら、どいつもこいつも鼻で笑 って終わりにするに決まってるのに。なのになんで翼種は、それと同じ理論で嫌われてるんだ。絶対おかしいよ、こんなの。 翼種は罪人なんかじゃない。傲慢な種族でもない。人が空に近づくのは傲慢だなんて言ってたら、背の高い奴はみんな傲慢だってことになる。山の上にだって住めない。そうだろ? ――ったく。ワケ分かんねぇよ。あたしが本当に傲慢だったら、そのでっかいプライド、どんだけズタズタにされてんだ。そのダメージで 20ぺんは死ねるっての。 あたしはごろんと本が読み散らかされた床に寝転がった。寝心地はサイテー。でも、ここがあたしの家だ。公共施設だから堂々とは言えないけど、ここの他に「家」って呼べる場所を、あたしは持たない。 そのつつましい我が家につつましい足音が入ってくる。あたしはそれが誰の足音だかすぐに判った。シスター・キリエだ。 「キリエ?」 あたしが呼ぶと足音は止まる。どうしたんだろう。普段ならキリエも呼び返してくるところなのに。 「キリエ」 もう一度キリエの名前を呼んで、あたしは本棚の間を縫って入り口に向かう。 キリエは自分からあたしに話しかけてくる、数少ない知り合いの一人だ。「友達」じゃない。キリエはシスターで、シスターは「差別的であってはならない。全てに対して友好的であれ」っていう教えに従ってるだけだから。 それでもあたしはキリエを「親しい人」だと思ってる。だから、キリエに何かあってほしくないんだ。 「どしたの?」 入り口の直前に立っているキリエは、悲しい顔をして目を伏せていた。――嫌な予感がする。 「ごめんなさい」 聞こえるぎりぎりの大きさの声でキリエが言う。目は伏せたまま、あたしのほうに寄ることもなく。 まるで、それ以上踏み込んだら何かあるみたいに。 じゃら、と鎖の鳴る音がして、あたしははっと顔を上げる。 ――鎖? 「キリエ」 「ごめんなさい、イヴ。私は――あなたを守りきれませんでした」 もう一度鎖が鳴って、キリエの細い体が押しのけられる。代わりにあたしの家へと踏み込んできたのは――黒い服を着た男たちだった。 「イヴレット・アジュール様ですか?」 医者の受付よりももっと事務的な声で黒服の一人が聞いてくる。あたしは何も言わずにただ頷いた。フルネームで呼ばれるのは何年ぶりだろう。それに何より、「様」を付けられたのなんて初めてだった。 「我らが主の元へとお連れ致すべく馳せ参じました」 「・・・・・・あんたたち、誰。それに何言ってるか全然わかんない」 黒服たちを睨んであたしは言う。戸惑ったように黒服たちは互いに視線を交し合った。 「お前を高貴なお方のもとへ連れて行く、と言っているのだ」 突然、汚らしいだみ声が割り込んできた。あたしはあまりの不愉快さに顔をしかめる。入り口の影から奴が姿を現したけど、見るのも嫌だからあたしは黒服たちの方に目を逸らした。 親戚のおやじだ。よりによって、あたしを一番ひどく扱う奴。 「感謝しろよクソガキ。わしはお前とあの高貴な方との縁談をととのえてやったのだ。いくら感謝しても足りんほどだろう。お前みたいな翼種のガキとあの御方とでは、釣り合わんにもほどがある。それをわしが――」 「余計なお世話」 あたしはおやじの台詞を遮って短く答え、その横をすり抜けようとした。その襟首をおやじに掴まれる。 「どこへ行く」 「あんたのいないところ――・・・・・・」 毒づこうとして、視界に入ったものにあたしは動きを止めた。おやじの横には、キリエ。入り口の横に倒れて、体をひねってこっちを見てる。 その手首には――鎖がかけられていた。 「あんたキリエに何をした」 おやじを睨んで鋭く問えば、おやじは「こいつは罪人だ」なんてしゃあしゃあと答えた。 「キリエが何したって言うんだよ!」 「やめてイヴ!」 「お前を監禁した罪だよ」 あたしは頭が真っ白になった。 誰が誰を監禁したって? キリエが、あたしを? ――ありえない。 「修道院でも今、こいつの処分については検討中だそうだ。まあ、これだけ長い間、人を一人監禁していたんだ。当然の結果だろうがな」 おやじのだみ声はあたしの耳まで届かない。なんでなんでどうして。それだけがぐるぐるとあたしの頭を巡る。 何がどうなってんの? 「さあイヴリィ、あの御方のもとに行け。お前は花嫁だ。夫を待たせるわけにはいかん」 「な、」 おやじの気持ち悪い猫なで声と脂ぎった手があたしの背を押す。あたしは黒服たちに目で問いかけた。 「あなたは伯爵に選ばれたのです。花嫁となるべき女性として」 「・・・・・・あたしが?」 「そうだ。だからさっさと行けと言っているだろう。ほら!」 おやじに背中を押されてあたしはつんのめる。それを支えるように伸ばされた手が、あたしの口に布を押し付けてくる。 つんとする薬の匂い。まだぐるぐるしているあたしの頭じゃ何が起きてるかなんて理解できなかった。反射的に抵抗した腕は簡単に押さえ付けられ、あたしの意識は遠のいていく。 「・・・・・・ごめんなさい、イヴ・・・・・・」 あたしの後ろ、入り口の横で、キリエが泣きながら呟いた声だけが、やたらとはっきり耳に届いた。 *** 「それでは、結納金としてこちらを」 「ええ、どうもどうも。いや、本当にあの娘で良かったのですかな?ああ伯爵の目のお確かさを疑うわけではございませんが」 「彼女は最高の女性に育つことでしょう。私が保証しますよ」 「でしたら私などが心配する必要はございませんな。いやいや、おみそれいたしました」 遠くのほうで声がする。 東から来る風があたしのまわりで揺れていた。それがあたしの目を覚まさせたんだって、なぜかあたしは知っている。 もっと強く吹いて、とあたしは思う。声なんて聞きたくなかった。 気持ちが悪い。 地面がぐらぐら揺れている。あたしは目を開けてぼうっと辺りを見回した。真っ白い床に鉄の柵。やけに広い空と―― (潮の匂い?) そこでようやく頭が覚めた。サライアは海に面した村だから、潮の匂いなんてそう珍しくない。でも、こんなに強く匂うとなれば話は別だ。陸にいる時よりはるかに強い匂い。ここは――海だ。 あたしは椅子を鳴らして立ち上がる。そうして初めて自分が椅子に座らされていたことに気付いた。いつもと違う服の感覚にあたしは自分自身を見下ろす。 レースたっぷりの白いドレス。白いタイツ、白い靴。手には肘まである白い手袋。白、白、白。 「うそ・・・・・・」 意識を失ってる間に着替えさせられたんだ。髪をかきあげようとした指に金属が触れる。小さなティアラ。ヘアピンで押さえられている。 あたしは黒服たちの言葉を思い出す。 アナタハ伯爵ニ選バレタノデス。 慌ててあたしは鉄の柵に駆け寄った。思ったとおりここは船の上で、船は船着場に寄せられていた。桟橋の上でおやじと誰かが話している。真っ白い服を着た背の高い男。黒服が二人、護衛のように付いている。 (あれが伯爵?) あたしが呆然と見ていると、そいつは振り返ってあたしを見た。目が合うとにっこり笑う。 「お目覚めですか、小さなレディ。もうすぐ出航しますから、待っていてくださいね」 それだけ言うと伯爵は、おやじに別れを告げて船の陰に消えた。たぶん船に乗り込んでいるんだろう。おやじはぺこぺこ頭を下げてそれを見送っている。 伯爵はすぐに甲板へと顔を見せた。後ろになでつけられた金髪と笑うように細められた目。 「初めまして、私のレディ」 「・・・・・・どうも」 あたしは軽く礼をして、伯爵があたしにひざまずくのを黙って見ていた。本の挿絵にあった騎士みたいなポーズ。あたしの手を取って、手の甲に軽くくちづける。 普段なら振り払ってるとこなのに、あたしはなぜかそうしなかった。伯爵の瞳だけをじっと見つめる。 淀んだ池みたいな緑色。 信用するなと頭のどこかが告げていた。そんなの知ってる。「私のレディ」?ふざけんな。あたしは誰のものでもない。 あたしはただのイヴリィだ。その名前の由来も知らないくせに。 低い大きな音と、ひときわ強くなった潮の匂い。船が揺れる。より不安定になった感覚が、錨が上げられたことを告げていた。 出航してしまう。 それに気付いてあたしは伯爵の手を振り払った。柵から身を乗り出して陸を見渡す。キリエ。あたしはまだあのひとに何も言っていないんだ。キリエの話もまだ聞いてない。 「キ――・・・・・・」 叫ぼうとしたところで誰かがあたしを抱き寄せる。その腕は真っ白いスーツに包まれていて、おかげで顔を見なくても誰だか分かった。この船で白い服を着てるのはあたしと伯爵しかいない。 「危ないですから。ね?」 「あたしに触らないで」 「おや、ご機嫌を損ねましたか」 「初めからだよ」 ひときわ強く言って伯爵の腕の中から逃げる。身を翻して伯爵を睨むと、白服の男はおどけた仕草で肩をすくめた。 「やれやれ、翼種というのは風のように気まぐれらしい」 その言葉であたしはこの男の考えに勘付いて、唇を軽く歪めて笑った。 気まぐれであってほしくない。それは服従を望んでいるっていうことだ。 「あんたにとって翼種はペット?」 短く問うと、伯爵は驚いたように目を見開き、それからいやらしい顔つきに変わった。「ああそうだとも」と打って変わった尊大な態度で肯定する。 陸が遠ざかっていく。それだけが気がかりだった。 「お前は翼種だ。サライアでは単なる悪魔にすぎずとも、エンクィールでは高値で売れる」 「そのためにあのおやじと取引を?」 「ああ。あの男はずいぶんと熱心にお前を売り込んでくれたぞ。よほどお前が疎ましかったと見える。私は単に『翼種の娘はいないか』と聞いただけだったのにな」 「あの辺で翼種って言ったらあたしっきゃいないからね。――花嫁ってのは、翼種を手に入れやすくする方便だね」 「その通り。伯爵との結婚を渋る者など、そうはいない。望む相手が厄介者の悪魔だと知れば余計にな。喜んで食いついてきたぞ、あの男は」 あたしはその時のおやじを想像して、猛烈に気分が悪くなった。あいつは喜んであたしを売ったんだろう。悪魔の換わりに金が手に入れられるなら、そんなうまい話はそうそうない。 あたしはイヴリィ――イヴレット。eviletのevilは「邪悪な」って意味だ。 ああそうかい。あんたはあたしの名前の意味もしっかり知ってくれてるってわけだ。 陸はもう水平線の上の影と化してしまった。もう戻れないだろう。東からの風が騒ぎ出す。 「キリエは?」 あたしは伯爵を睨んで詰め寄る。 「キリエはどうして捕まったんだ。あいつは何もしてないのに。監禁なんかするはずもない。第一あたしは監禁なんてされてない!」 「していただろう」 しれっとした態度で伯爵は答える。 「そういうことにしておいたほうが都合が良い」 「・・・・・・なんだって?」 「あの女はお前を引き渡すことに抵抗した。逆らったのだよ、この私に。だからそれ相応の罰を与えてやったのさ」 そして伯爵はいやらしい笑いをいっそう深いものにした。 「――お前が監禁されていたのであれば、私はそれを助けた正義の貴族になれるというわけだ」 目の前が真っ白になった。 キリエは泣いていた。何度も何度もあたしに向けて謝って。 『イヴリィ』じゃなく『イヴ』って呼んでくれる唯一の人。始まりの女性の名を冠されたあたしは、ほんの少しだけ救われていたんだ。 なのにこいつはそのキリエを泣かせて罪を被せるような真似をした。 邪悪なのはどっちだ。 「思い通りになんてさせるもんか!」 その瞬間、風は私の味方になった。 サライアから吹く風。ずっとあたしを待っていた東からの風。潮風。旋風。沖津風。その全てがあたしの回りを駆け抜ける。 甲板に置かれていた椅子やテーブルががたがた鳴っては倒れていく。伯爵が目元を覆ってあたしから退く。 そしてあたしは翼種の飛び方を理解した。 一陣の風が抜ける轟音。 飛べ! あたしの足が甲板から離れると同時に飛行が始まる。体の重さがなくなったような感覚。腕は翼の形に変わり、異形の翼種は風になる。 走り出すようにあたしは飛んだ。船はあたしの下でみるみるうちに小さくなり、おもちゃのように小さな伯爵たちを後にしてサライアへと翔ける。 待ってて、キリエ。あんたが泣く必要なんてどこにもないんだ。 キリエ・エレイソン――その名前の意味は『主よ哀れみたまえ』。 あんたがすがるべき奴らは今、手のひら返してあんたを罪人扱いしてるんだろう? あたしはキリエの神にはなれない。哀れみを乞われたいわけでもない。――けれど。 キリエを助けることならば。 あっという間に近づいてきたサライアの家並み。その中心部にある教会の入り口に、今まさに神父たちに引き渡されようとしているキリエの姿があった。手首に鎖をかけられて、罪人と同じく黒い布を頭にかけられて。 「キリエ!」 あたしが叫ぶより早く、キリエは顔を上げていた。あたしのまとった風がキリエの被った黒い布を吹き飛ばす。すみれ色の瞳が驚いたように見開かれていた。 こんなきれいなひとを罪人だなんて、あんたら目が腐ってる。 「イヴ!」 「へへ、助けに来たよ。ごめん、あたしのせいで」 「イヴレット、おまえ――翼種の力を」 神父の目があたしの喉元に注がれている。サライアの法では、翼種のあざは未熟な個体にしかついていない、つまりあざのある翼種はまだ子供ってことで、命だけは見逃すことになっている。 でも、あざが消えてからは――つまり風を扱えるようになってからは、大人と同じ扱いだ。 死刑だって適用できる。 神父だけじゃなく、その周りにいる奴らも不意に殺気立った。 「悪魔!」 誰かの声に呼応して、別の誰かがまた叫ぶ。 「殺せ!」 飛んできた拳をあたしは避ける。石が投げられる。木の枝が振り下ろされる。それでもあたしは避け続けた。 「殺せ!」 「殺せ!」 「殺せ!」 次第に高まっていく声にキリエが身をよじる。 「イヴ逃げて!」 「やだ!」 答えるとともにキリエを縛る鎖に風が走る。キンッと音がして鎖が切れた。とまどうキリエをあたしは教会の中に押し込んだ。 「地下に行って、早く!」 「おまえ何を」 「おまえらには関係ない!」 神父の手から逃げるようにあたしは後ろに飛びのいた。開けっ放しの戸の向こうでキリエが奥に駆け去っていくのが見えて、あたしは迷わず地面を蹴った。腕が翼に変わるとともに地鳴りが始まる。 邪悪の名の由来を知るがいい! 嘘のような静けさが一瞬。 ――そしてサライアは竜巻に飲み込まれた。 *** キリエはあたしを許してはくれないだろう。空を翔けながらあたしは思う。 関係のない人を巻き込んだ。じいちゃんばあちゃんも子供も病人も見境なく。それだけでも十分だってのに、あたしはキリエだけを守ろうとした。 やさしいキリエは自分だけが無傷だったことを責めるだろう。そしてあれだけの災害を起こしたあたしも。 どこまでいこうと邪悪は邪悪。あたしは創世のイヴじゃなく、悪魔のイヴリィなんだから。 不思議なくらい落ち着いていた。 ごめん、とあたしは胸の中で謝る。――あたしはもう、二度とここには来ないから。 だからキリエ、もう泣かないで。悪魔はもういないから、誰かにすがる必要もないから。 飛ぶあたしの下に横たわっているのは海だ。今ここで風を散らせば、あたしは海に堕ちるだろう。このだだっ広い中じゃ助けなんて来やしない。死はすぐ目前にある。 でも自分から死を選ぶのはキリエとの約束に反していた。この期に及んであたしはまだ、ばかみたいにキリエにすがっているんだ。――ああ、本当になんてばかなんだろう。 そんなに大事だったんなら、なんであんなことしちゃったんだ。キリエが泣くって分かってたのに。 たった一瞬の過ちが、あたしを一生誤らせた。キリエのもとには戻れない。だからせめて、あのひとから一番遠い場所へ。 海を渡ったさらにその先、地図でしか知らない土地――ベイリット。 その名前は、他のどの土地の名よりも鮮明にあたしの頭に刻まれていた。図書館で本だけを相手に過ごしていた日々、サライアから最も遠い場所として記されていたそこに、あたしはずっと行きたかったから。 そこでキリエと暮らせたら。ほんとうはそう思っていたはずなのに。 その考えを振り切るようにあたしは頭を振り、いっそう風を強くした。 風を操るって行為はなかなか体力を使うらしい、そのことは竜巻を呼んだ時に実感した。だんだん疲れが溜まっていく感じは走っている時の感覚に近いかもしれない。息切れはしないし疲れるのも足だけじゃないけど。 使う風が強いほど体力の消耗は激しい。あたしが今使っている風はこれ以上ないっていう強さだった。ベイリットに着くのが先か、あたしの体力が尽きるのが先か。地図の上でさえ距離が開いていたそこに、あたし如きの体力で到達できるとは到底思えなかった。 これは賭けだ。対価は、あたしの命。 大陸の端でも島でもどこでもいい、墜落する前に休める場所を見つけられたらあたしの勝ち。そこでいったん頭を冷やして、そこからは堅実にベイリットを目指す。どこにも降りられなかったら負け。ただそれだけ。 じりじり肌を灼きつける太陽にあたしは狂わされているのかもしれない。海と空の他にあるただ一つのそれが難敵だった。飛んでいる間は翼に変わる翼種の腕じゃ、汗をぬぐうどころか強烈な日差しから目を守ることさえできない。光は上からだけじゃなく、海の照り返しで下からも襲いかかってくる。やっぱり悪魔は光のせいで死ぬのかな、なんて馬鹿なことを考えた。 光は同時に熱でもある。風の渦巻く中心にいるせいで光ほどうっとうしくはないけれど、それは確実にあたしから水分を奪い去っていく。日焼けした肌の痛みよりも喉の渇きのほうがつらかった。このまま海に飛び込んでしまえば楽になるんだろうか。 ぼんやりする頭にひときわ強い風を一つ浴びせて水平線のあたりに目を凝らす。何も見えないことに落胆すると同時に、正しい進路を取れているのかどうか不安になった。思い切り高く上昇してもう一度前を見渡す。見える光景には何の変化もなかった。 喉が渇く。 |
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