十三の時に親が死んだ。 その年は熱病が流行っていて、どうやらそれにやられたらしかった。父・母と立て続けに、実にあっけなく逝ってしまった。 思わぬ形で置いてけぼりにあってしまった祐介は、家財を売り払い、その金で両親の葬儀を済ませてから家を引き払った。それ以来彼は家というものを持たない。 残った金を持って、彼はあてどもない旅に出た。自分が生まれた国を目指し、ひたすらに東へと。 乗り物を使うことを良しとせず、徒歩と最低限の渡航のみの道程を選んで行ったおかげで、祖国に着いた時にはすでに二十歳を越えていた。五歳の時以来の故郷である。 とはいえ殆ど異郷に近いそこを、彼は大した目的地もなくふらふらと南下していった。明確な目的地があったわけではない。だが、宿屋の主人に「出雲に行ってみろ」と言われたので、そこに向かうことにした。なんでも、そこには有名な神社があるのだという。 出雲というのがどこだか分からなかったので、行く先々で人に尋ねながら歩いていった。東海道五十三次をたどって、京へ。そこから海沿いに進んで出雲へと入った。 地元の人間に道を訊きつつ進んでいく。しかし、何故か目的の場所は見つからなかった。どこまでも続く田園地帯をぐるぐると歩き回り、同じ場所を巡っていると気付いた時にはすでに日が傾きかけていた。 野宿を覚悟し、辺りを見回す。と―― ――いつの間にか、風景に馴染んで、茅葺きの屋敷が建っていた。 先程まで、こんなものは視界になかった。いぶかしく思いながらも、他に家らしき影はない。祐介は恐る恐る屋敷の門を叩いた。 音もなく玄関の戸が横に滑り、真っ黒い着物姿の男性が現れた。祐介と視線を交えるなり、丁寧に頭を下げる。 「かねてよりお待ちしておりました」 「――え?」 不可思議な出迎えの真意を問う隙もなく、男は祐介を内へと招き入れた。背後で戸の閉まる気配がする。男は祐介の目の前にいる。誰が戸を閉めたのか確かめる隙はやはりない。 「いらっしゃい」 老人特有の、少し間延びした声。見れば廊下のすぐ左、三方を通路に囲まれた居間の囲炉裏端に、人の良さそうな老婆がちょこんと正座して微笑んでいた。 「よくおいでなすったことで。どうぞどうぞ、お好きな部屋をお使い下さい。夜や、案内しておやり」 「はい」 夜、というのが男の名前らしい。なるほど、確かに彼は夜のように黒い。 老婆の指示に従い、夜はするすると無言で歩き出した。まるで足音がしないのは、この男だからだろうか。居間の横にある階段を登り、二階へと向かう。あまりに古そうなので軋む音の一つもするかと思いきや、黒ずんだ木製の階段は床と変わらぬ堅固さをもっていた。一段一段、踏みしめるようにして登っていく。 階段を登り終えた先には、手入れの行き届いた長い廊下。左右に幾つも扉がある。これが全て客室なのだろうか。 「あちらへどうぞ」 夜が示したのは、廊下の突き当たりにある扉だった。礼を言い、その部屋に向かう。 民家のものにしては広い部屋だった。旅荷を下ろして一息つく。どこからか潮の香りがした。 そういえば、ここは海が近いのだったか。 思い立って窓を開けてみた。静やかな夜気が室内に流れ込んでくる。正面には黒々とした木立、赤い鳥居が木々の中に見え隠れしている。薄青い灯は何だろう、提灯のものではないようだ。ゆらゆらと幽かに揺れている。 あれは何だ? 窓から身を乗り出して目を凝らす。 瞬間、鮮やかな光景が頭の中に流れ込む。 一面の空と漂う雲、赤い着物を着た女が笑っている。 『いらっしゃい』 そして世界は反転した。 強烈な目眩と浮遊感、何かを越える本能的な感覚。表と裏が入れ替わるように視界が変わる。 ――気付いた時には、祐介は一面の空の中にいた。 地に相当する部分には何もなく、そこにもただ空があるばかり。飛んでいるという感覚がない代わり、何かの上に立っているという感覚もない。 ついさっき幻視したのと同じ世界。 ここは一体、何なのだ。 「ようこそ『天眼帰淵』へ。異界放浪の御方」 不意に若い女の声が掛かった。振り向く。 ――鮮やかな赤い着物に目を奪われた。 あの女だ。 艶やかな長い黒髪に白皙の美貌。女は笑う。 「初めて境を越えた御感想は如何です?」 「――境?」 「ご存知あられないのですか」 「何も――何も、私は知らないのです。ただ気が付いたらここに――」 「それが貴方の性質なのです」 錯乱しかけた祐介を制すように、女は言った。 「異界放浪者は生涯旅を続けなければなりません。それだけが貴方の命を繋ぐ術。私が貴方をお招きしたのは、貴方がいらした場所のみが世界だと思って頂きたくはなかったからでございます」 「それは――」 「世界は三層。『天眼帰淵』と『果ての海』、その間に広がる混沌。通常の人々は境を越えることならず、己の生まれた世界で生涯を終えるのみ。けれど貴方は」 すう、と女の白い手が祐介の頬に触れた。 「貴方は――異界放浪者。境を越えることはたやすく、老いも病もなく彼方此方と彷徨い続けなければなりません」 「それが――貴方の定めなのでございます」 くらくらとひどい目眩がした。 異界放浪者。生涯彷徨い続けるもの。境を越え、世界を超えて。 旅の始まりはいつだったのだろう。家を後にしたあの時か。それとも。 ――生まれたときからだ。 そして彼は理解する。 すでに人ではなくなりかけていた自分を決定的に変えたのは、あの屋敷。 あの茅葺きの奇妙な屋敷は、すでに異界だったのだ。 『かねてよりお待ちしておりました』 脳裏に夜の言葉が蘇る。――そう、自分はずっと呼ばれていたのだろう。 生まれた世界の外側の、自分が歩くべき世界の声に。 「貴女――」 頬に当てられたままだった女の手を掴み、祐介は口を開いた。 「『果ての海』の場所をご存知ですね?」 問うた時、なぜか女は驚いたような目をしていた。無理もない、間近で見た祐介の瞳は紅く――血のような色に変わっていたのである。 そのことを祐介自身が知る由もない。 「教えて頂けませんか。天眼帰淵と混沌と、残る最後の一つの場所を」 「ええ――」 畏れたように女は頷き、掴まれたほうとは逆の手で下を示した。 「『果ての海』はあちらです」 礼を言う間もなく世界が反転した。 移動は開始と同じく唐突に終わりを告げる。 (少し――制御が効くようになったらしい) ひどく冷静にそう思い、ぐるりと辺りを見回した。 天眼帰淵と同じく、どこもかしこも青い世界。ただ違うのは、そこが空ではなく海の青に満ちた世界だということだった。 水の中にいるような静謐。昼でも夜でもない明るさ。 「よお、小僧。よく来たな」 「ここが貴方の『家』ですか」 振り向きもせずにそう言うと、無骨な声の主は笑った。 「あァ、そうなるな。羨ましいか?」 「少しだけ」 答えて初めて祐介は、肩越しに声の主を顧みた。総髪頭に無精髭、擦り切れて色褪せた草色の着物。天眼帰淵の彼女とは対照的な格好である。 「貴方が『果ての海』の主ですか」 「主、って呼ばれるほどでもねェよ。あんたと同じで、ここに呼ばれたから居るってだけだ」 「――貴方も」 「おうさ。ただし、俺はここから動けねェがな」 「動けない?」 「少なくとも、あんたみてぇに境を越えるような真似はできねェな。俺は視る者であって彷徨う者じゃアない」 「そう――ですか」 「まあ、あんたみてぇに異界を渡る奴は前にも居たから、そいつのおかげで多少は他の世界についての知識もあるがな。詳しくは知らん」 「その御方は、今」 「さァな。毎日のように来る時もありゃあ、何十年と来ない時もある、そういう奴だから把握はできん。運さえ良けりゃいつかは会えるんじゃねェのか」 そうですか――と祐介は頷き、思いついたように男に問うた。 「貴方と、天眼帰淵の彼女の名をお教え願えますか」 「ああ?聞いてなかったのか。あいつは晴姫ってぇんだ。俺は無鏡」 「晴姫さんに無鏡さん、ですね」 「さん付けはやめろ。こそばゆい」 「では、ミスター無鏡」 「みすたぁ?」 なんだそれは、と言いたげな無鏡の視線をかわしてさらに問う。 「私の元いた世界で、二十年後、大きな戦が起きるのをご存知で?」 無鏡の表情がこわばった。何かを見極めるように目が細まる。祐介はその視線に甘んじた。 「あんた――『先見』持ちか」 「あまり精度は良くないですがね。・・・・・・その戦をもって、私の祖国は大きな変化を迎えます。見たところ、貴方も晴姫嬢もかの国の出身である御様子、――どうなさるおつもりで?」 「どうもこうもねェよ」 噛み付くように無鏡は答える。 「俺ァ照覧者で記憶者だ。世界から眼を背けるなんざできやしねェ。俺が見ねェと時間は動かん。その上、見る以外にするこたぁ何もねェんだよ」 「見ざるを得ない――と。では、晴姫殿は」 「あいつァどこの様子も『過去』しか知れん。現在も未来も知るこたァできねェから、どうもできやしねェんだ」 「なるほど。・・・・・・お答え、ありがとうございます」 深々と無鏡に頭を下げ、祐介は吹っ切れたように宙を見上げた。 「ずっと迷っていたんです。二つの故郷が剣を交える戦に、私はどう対応すればいいのか。――この戦の存在を知った時から。私が何者か知らされた時、他の世界ばかりを歩き続けることも考えました。けれど、――終わりまで、見届けることにしましょう」 「それでいいのか?」 「ええ」 祐介は笑い、穏やかな声で続ける。 「故郷への期待を忘れるためにも、必要なことだと思いますしね」 ――留まり続けられないのなら、期待など捨てなければなるまい。 自分を迎えてくれる人を、帰るべき場所を完全に失って、そうして初めて自分は本当の意味での異界放浪者になれる。そんな気がしていた。 だから、祖国が焼き尽くされる様子から目を背けるわけにはいかない。 「貴方に会えて良かった。このようなこと、晴姫嬢に聞くにはあまりに忍びない」 「なるほどな。――だが、適任だ」 さもおかしげに無鏡は笑い、それから「これからどうするんだ」と聞いてきた。 「これから?・・・・・・そうですね、墓参りにでも行きましょう」 途端、世界は三たび反転した。 ざわざわと木立が風に揺れている。 どうやらこの力は、どこかへと意識を向けた瞬間に発動するものらしい。制御がうまくいかないというのは厄介だ。呆れたように祐介はそう考えた。 橡や桐に混じって一本だけ生えている椿の古木は、両親の家の墓だ。この木の下に、祐介まで血脈を繋いできてくれた先祖たちが埋まっている。 この家では、椿の木の根元に埋葬されるのが慣例なのだそうだ。 だから祐介も両親の墓の横に椿を植えておいたのだが、それよりむしろ、こちらに埋葬してやればよかっただろうか。そう思って少し後悔した。 青々とした椿の葉が、木漏れ日を受けて揺れている。椿は常緑樹だ、冬になってもこの葉が全て落ちることはない。 そういった木のことを、常磐木と呼ぶのだそうだ。 これから異界に身を置くのなら、こちらの名は捨てねばなるまい。名はまじないであり、縛るもの。その戒めを解くのに、この木から貰う名ほど相応しいものもないだろう。 「常磐――か」 静かに宙へと呟いてみる。悪くない響きだ。 自分もまた、この椿と同じく不変の者に成り変わった。 不変の墓守。この地へ足を運ぶごとに、この木のもとに参ろう。 そしてまた、両親を守る椿のもとに。 そっと椿から視線を外し、木立の奥に目をやると、見覚えのある鳥居が立っていた。 あの奇妙な屋敷の窓から見た―― ふ、と常磐は苦笑した。なるほど、全ては定まっていたのだ。あの屋敷を中心とした一帯はすでに異界、その内に先祖の墓があるということは。 父も母も、ひっそりと異界を垣間見ていたのだろうか。 ゆっくりと振り返り、目を細めて木立の向こうを透かし見る。未だ記憶に新しい、茅葺き屋根の屋敷と人影。あの背格好は夜だろう。黒一色に染まって見えるその影が、こちらに向けて頭を下げる。 この木立にか神社にか、それとも常磐に向けてのことか。 ――かねてよりお待ちしておりました。 異界の影に、再びそう言われたような気がした。 終 up date 05.06.25. |
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