男は宝石をたくさん持っていた。 赤・橙・黄・緑・青・藍・紫。 球体・立方体・円盤・紡錘形・正八面体。 小指の先にも満たないものから人頭大のものまで。 男の部屋は宝石で満たされていた。 革張りの肘掛け椅子に座って部屋中に飾られた宝石を見る時が、男の最も幸せな時間だった。 宝石に男の顔が映ることはない。近づいたところでそれは同じだ。 男の顔だけではなく、宝石がその表面に何かを映すことは決してないのだった。 宝石を覗き込んだ時、見えるのは色の渦だけだ。そのものの色が心を呑み込む。しかもそれは、どれだけ眺めていても飽きるということ がない。男は毎日のように宝石を覗き込んでは満足していた。 ある日、使用人の一人が自宅で首を吊って死んでいるのが見つかった。 彼の遺書には、男が大切にした宝石を一つ、誤って壊してしまったこと、それに対する叱責はもちろん、 宝石を割ってしまった時に聞こえた悲鳴が恐ろしくてしょうがなかった、といったことが書き連ねてあった。 悲鳴? 大切な宝石を壊された怒りより、悲鳴に対する興味が勝った。石が声を上げるというのか? それは一体どんな声なのだろう。 ――聞いてみたい。 男はそう思い、あまり気に入っていない色の宝石を一つ選び、力任せに床へ叩き付けてみた。 かしゃん、と儚い音がする。 同時に溢れ出た悲鳴が幾重にもなって男の耳を貫いた。胸をかきむしられるような悲鳴だ。使用人を死に追いやった悲鳴だ。 細く高く低くほとばしり、男の背筋をざわめかせる。 ――なんて素晴らしい。 男は宝石の悲鳴に魅入られた。 気に入っていない色の宝石を片っ端から床に叩きつける。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 宝石が上げる悲鳴には、一つとして同じものはなかった。それに気付いた男はますます気を良くし、今度は手当たり次第壊し始めた。 幼児の悲鳴。老人の悲鳴。男の悲鳴。何より女の悲鳴は素晴らしい。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 やがて宝石が少なくなってきたので、使用人に言いつけて買ってこさせた。 買い足す端から壊していったので、部屋は以前のように宝石で満たされてはいなくなった。 代わりにそこには悲鳴が満ちた。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん――・・・・・・。 悲鳴は連なり束になり波となって男の心を震わせた。脳髄が痺れるような感覚。なんと心地良い。 いつまででも聞いていたい。 何かに取り憑かれたように男は宝石を壊し続けた。 悲鳴を。もっと甘美な悲鳴を。もっと、もっと! しかしある時、宝石を床に叩き付けようと振り上げられた腕は止められた。 目の前には黒い外套を纏った女性が立っている。どことなく聖母マリアの像に似ていた。 「初めに、このような時間に訪問する非礼をお詫びいたします」 言われて男は窓の外を見た。久しぶりに見る光景だ。日が昇ろうとしているところだった。 男は頷き、お詫びなどいいから腕を放してくれ、と言った。そうでないと宝石を壊せないから。女は悲しげに首を横に振った。 「そういうわけにはいきません。もうこれ以上、被害を増やすわけにはいかないのです」 被害?一体何の。 この女も宝石を集めているのか?自分の宝石を横取りしに来たのか? 「あなたは、この石たちに生命があることをご存知ですか?」 知っている。生きているからこそ宝石たちは悲鳴を上げるのだ。 死んだ宝石になど興味はない。 男の足の下で、じゃり、と宝石の破片が鳴った。 女は嫌悪もあらわに眉根を寄せる。そういえば何故か彼女の周囲だけは宝石の破片が散っていない。他はどこも破片だらけだというのに。 「あなたが破壊し続けた石たちは、ただの石ではありません」 知っている。これらは素晴らしい悲鳴を上げてくれる宝だ。 「それがどうした」 男は答えた。久しぶりに出した声は少し掠れていた。 「普通の石ではないから、こうして私の手元にあるのだ。――よく聞くがいい」 「やめて!」 男が何をしようとしているのかに気付いた女は叫びを放った。しかし男にそんな制止が効くはずもなく、ためらいなく女の腕を振り払う。 儚い音を立てて宝石が割れた。 かしゃん――――――・・・・・・・・・・・・ 同時にほとばしる悲鳴をかき消したのは、女の悲痛な声だった。 「ああ、何ということを・・・・・・!」 女は膝を折って宝石の破片に細い手をかざす。すると、その周辺にあった破片は光となって立ちのぼる。 ふうっと浮き上がったそれを女は胸に抱く。さながら、イエスを抱く聖母マリアのように。 光は女に吸い込まれるようにして消えた。 しかし男の目にその光景は映っていなかった。あるのはただ、女の喉と甘美な悲鳴。 男の求めていた悲鳴が今、目の前にあった。 ゆっくりと女が立ち上がる。その双眸が男に向けられるより早く、男の手が女の白い喉を捕らえた。柔らかな肌に自分の指が食い込む感覚に男は酔った。苦しげに歪められた女の顔がこの上なく美しいものに思えた。 あとは悲鳴を。 悲鳴を上げろ、あのこころよい悲鳴を、自分に快感を与える悲鳴を! どれだけ力を込めても女は悲鳴を上げようとしなかった。首の骨が折れそうになるほど絞めたところで、少しやりすぎたかと手を緩める。女は動かなくなっていた。だらりと下がった細い腕が揺れる。女は人形のような顔で目を閉じていた。 壊れてしまった。 途端に男は女に対する興味を失い、宝石の破片が散った床に女の体を放り出した。ほとんど音を立てずに壊れた女は床へと倒れる。 悲鳴を上げないのなら、用はない。 他の宝石を壊そうと女に背を向けたところで、男は低い呻き声を聞いた。 「――愚か者」 素早く背後を振り返る。壊れたはずの女は再び動き出していた。ゆっくりと、周囲の破片を光に変えながら起き上がろうとしている。 女の首にはまだ、先程自分がつけたばかりの赤黒い手形が残っている。壊れたはずだ、なのになぜ。 「お前は、壊れても元通りになるのか」 「・・・・・・壊れる?」 女の目がすっと冷えた。男はそれに気付くことなく、言葉の勢いに拍車をかけていく。 「もしそうなのだとしたら、私の物にならないか。お前のためなら何でもしよう。どんな物でも買ってやる。どんな望みも叶えてやろう。その代わり」 「自分のためだけに悲鳴を上げ続けろ、と?」 「そう」 肯定した男の額に女の細い指がひたりと向けられ、同時に女の眼差しが男の両目を貫く。見つめる瞳は闇の漆黒。宝石の中にはなかった色。 激しい感情に揺れていた。 「私が愚か者と言った意味が判りませんか」 「そんなものは知らない。私のものになれ」 女はそれに答えることなく、見限るように目を閉じた。白い指が、とん、と男の額を突く。 ――男は瞬時に、闇の中へと呑み込まれた。 「お還りなさい、あなたたちの場所に」 ささやくように彼女は言い、大きく窓を開けて朝の光を部屋の中へと導いた。それに触発されるように、宝石の中から光が生まれる。 |
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